福田緑(元教員・アマチュア写真家) ・"祈りの彫刻"を撮り続けて20年
1950年生まれ、72歳。 20年あまりにわたって中世後期に活躍したドイツの彫刻家ティルマン・リーメンシュナイダーの作品を撮り続けてきました。 これまでに東京都内の画廊で2度の写真展を開き、4冊の写真集を自費出版、2019年には日本自費出版文化賞、グラフィック部門特別賞を受賞しています。 福田さんは教員として都内の小学校で33年間勤務しました。 教員生活の後半はハンディーのある児童たちと接し、子供たちに教わる事も多く精神的に救われる場面もあったと振り返ります。 500年前のドイツの彫刻家に心惹かれる事と相通じるものがあったのでしょうか。
今年、1月の下旬に国分寺市の画廊で2回目の写真展を6日間開催。 トータルで471名、予想の2倍以上で吃驚しました。 5冊目の写真集に取り掛かっています。 今まではお金を払って写真を載せることはしなかった、自分の撮った写真と提供していただいた写真で作ってきましたが、最後だから自分でお金を払ってでもいいから見せたいものを見せようというのが一つあり、いろいろな出来事のストーリーを書いてこなかったので、是非書いて出してほしいと言われて引き受けました。 「結 祈りの彫刻リーメンシュナイダーからシュトース」と言うタイトルにしました。
ドイツの彫刻家ティルマン・リーメンシュナイダーは後期ゴシックからルネッサンスへの移行時期の彫刻家です。 1460年ぐらいにドイツのハイルバート・ハイリゲンシュタットで生まれたという事は判っています。 1485年から最初の作品を作ったと言われています。その後祭壇を3つ作って段々名前が広がってゆきます。 アムステルダムにある「受胎告知」は色々経て、オーストリアの或る地下に保存されていたが、ナチスが降伏した後で爆発される予定だったが、ほかの作品と共に危うく救われた作品です。 リーメンシュナイダーは1504年市参事会員に、1520-21年市長に選任され1524年までこの職を務める。 1525年にヴュルツブルクに農民戦争が起こってきて、農民の側に立って門を開けて、農民側が討伐された時に投獄されて、拷問を受けて彫刻に大事な腕を折られたという話があります。 1832年にリーメンシュナイダーのマリア祭壇が発見される。 ドイツでは名をはせる彫刻家として再浮上しました。 アメリカでは20点、著名な美術館には1~数点所蔵されています。
オーストラリアに英会話レッスン仲間女性4人で帰られた先生を訪ねていきました。 一人で最後の1週間は旅をして帰りの飛行機でドイツ人と一緒になり、友達になりました。 リーメンシュナイダーの写真を見たら素敵な写真がありました。 1998年娘と共にドイツに旅行しました。 翌年夫と又ドイツに旅行しました。 ミュンヘンにある国立博物館に行って、壁にマリア様が浮いているように立っていました。 それを見た時にギューンときて、涙がぽろぽろ出てきてしまいました。 この人の作品は全部見てやろうという決心をしました。
子供の頃、扁桃腺が悪くて病院から手術をした方がいいと言われて、小学校4年生の夏休みに手術を受けました。 2学期からは勉強がよく判るになりました。 6年生の頃は積極的に手を上げるようになっていました。 勉強のできない子の気持ちの判る先生になりたいと思うようになりました。 東京学芸大学を卒業後、小学校の先生になる。その後 障害のある子供たちを受け持つ特別支援学校、言葉の教室を受け持つ。 著書に 『子どもっておもしろい』などがある。 4年生を受け持った時に問題のある子供たちへの対応で落ち込んでしまって、障害のある子供たちの先生へと希望しました。 一般の子供たちよりも一生懸命やっていて、その子たちからいろいろ、しんどくてもやれるところまではやってみようというように、教わりました。 その後個人レッスンをする言葉の教室を担当しました。
3年生で「僕、生まれ直したい。」と書いた子がいて、遊ぶ時にはとても生き生きとした顔を見せました。 暗い部屋でトンネルのようなところでボール遊びをしていて、その子の母親の話を思い出しました。 母親は生まれる前からその子を傷つけていた、本当は女の子が欲しかったが、男の子だとわかって流産しないかと思ってわざと倒れたりしたが、この子はお腹の中では必死に生きようとしていたと思います。 その男の子は哺乳瓶で飲んでいておかしいと思ったら、この二つが結びついた。 この子は生まれ直したかったんだなと、だからこのトンネルはお母さんの産道だったんだろうと、そこに私が一緒にいたことでよく生まれるんじゃなかったのかと、それで出ていったので私も涙ぐんでいたかもしれません。 それからどんどん良くなって卒業していきました。
感覚統合、感覚はそれぞれ一つずつあるのにうまく統合できないために学校で問題を起こしてしまう子がいました。 1:1だととてもいい子だし、知恵の遅れも全くない。 だが文字を書かせると非常に苦手でした。 私よりゆっくり書かせるようにしました。 そういった問題の子にはそれなりのカリキュラムが出来る教室と言うのは救いになりました。 根気よく続けることをあの子供たちから教えてもらいました。
2031年がリーメンシュナイダー没後500年、日本ではマイナーで本は売れないという事で、自費出版して作っています。 大写真展を2031年にはやりたいと思っています。