浅利政俊(桜研究家) ・桜で咲かせる平和のこころ 1
昭和6年(1931年)生まれ。 91歳になります。 桜の研究のスタートは北海道の八重桜のルーツを調べる事でした。 60年以上積み重ねてきた研究は100種類を越える桜の新品種を生み出すことになりました。 浅利さんは桜を平和の心をはぐくむ花にしたいと、世界各地に桜を送って平和を呼びかけています。
日本に昔からあったものとしては、山桜、大山桜、霞桜、大島桜、江戸彼岸桜、豆桜、冬至桜、高嶺桜、近年見つかった熊野桜、寒緋桜(沖縄)などがあります。 野生の桜の中に八重桜は無いんですね。 野生の桜は花びらがほぼ5枚なんです。 八重桜の花弁は10枚以上になります。
昭和34年に八重桜の実を集めようとしていましたが、1本の八重桜に1000個の花がついても3~5個の実しかつかないわけです。 子供たちと一緒に、120本の木から570個ほどの実を集めて、箱に土を入れて種をまきました。 5月中旬に10本の芽が出て来ました。(専門家の間では八重桜からは芽が出てこないと言われていた。) 北海道で風雪から守ることは大変で、夏は潮風が吹いてきます。 4年後に5月中旬に1本の木から八重桜の花が咲いていました。 花びらも親のものよりも多かった。 親の性質を遺伝するんだという事が判りました。 新種として「松前綾錦」と言っています。
花びらが10枚以上のものを日本では八重桜にしています。 昭和34年以来品種改良をしたのが100種類を越えます。 寒さに、病気に強いのかどうかとか7,8年かけてチェックして世の中に出さなければいけないので、品種改良は極めて難しいんです。 60年続けてきました。
昭和20年に農業学校に入りましたが、派遣されて北海道の農業試験場に行きました。 8月15日に玉音放送を聞き、場長から日本は負けたことを知らされました。 君たちは農家を指導する人材になってほしいと場長から言われましたが、明日からどうしたらいいんだという考えばっかりでした。 子供を教えたいという思いから北海道第二師範学校に行きました。 学校へ入った途端に心臓を悪くして入院することになりました。 結核も患う事になって、2年間休学してしまう事になります。 休学後に菅原繁蔵先生と会うわけです。(休学が無かったら先生との出会いはなかった。)
菅原先生が宝物のようにしていた桜をくださって、「お前は将来、桜のことを一生懸命やれよ。」と言ってくださいました。 植物学会にも先生が推薦してくださいました。 最初に学会に発表した時にも共同者という形で発表しました。 大恩師です。
日本人が2000年の歴史のなかで、丹念に八重桜を育ててきたんです。 日本の公園の85~90%はソメイヨシノだといわれている。 これは悲しいことです。 大阪の造幣局はほとんど八重桜、新宿御苑、岡山の後楽園、京都の植物園にも八重桜が残っています。桜は八重桜と山桜しかないものだと思っていました。 廃藩置県により松前城がなくなり、山桜を公園に植えていきました。 1000本のソメイヨシノを植えましたが、八重桜もぽつぽつ植えました。 南殿八重桜は遺伝子分析が進んで、北海道や松前で出来たものではないんです。 原種は本州がもとになってできています。 大島桜、山桜、長寿桜が交雑してできて、北前船に乗って松前の方に運んでこられた、という事がわかっています。 ソメイヨシノのようなてんぐ巣病を持っていません。
八重桜は多種多様で香り、色(黄色、紫などもある。)など沢山あります。 奈良の八重桜は自然に生まれたもので、今で言う突然変異で産まれたものと思います。 霞桜から生まれたと推定されます。 自然界における突然変異は極めて少ないと言われている。(1/1千万ともいわれる。)
平和活動にと言う事で、「松前桜保存子供会」を立ち上げる。 小さいころからの体験が絶対必要だと思って、作りました。 桜に託す平和の思いという事で、「函館空襲を記録する会」を立ち上げ、代表をしています。 体験を子供たちに引き継ぎたいという思いです。 稲を作る時にはどこの桜が咲いたから種おろしをしてもいいよと、稲と桜を結び付けて収穫があるように村中が力を合わせてやった。 桜は村を平和にさせる桜だった。