小堺一機(タレント) ・【師匠を語る】僕を育てた萩本欽一
僕は萩本欣一さんを「大将」と呼んでいます。 天才なのに教えるのがうまいんです。 一般的に天才は自分が出来ちゃうから説明があまりうまくない。
萩本欽一さんは今年81歳。 昭和16年東京の下町に生まれます。 高校卒業後浅草の軽演劇のステージで活躍した後、1966年25歳で坂上二郎さんとコント55号を結成、欽ちゃんの愛称で呼ばれた萩本さんは、名前を冠にしたレギュラーを数多く持ち、テレビやラジオで声を見聞きしない日がないほどの国民的な人気者になりました。
お笑いが好きだったので観ていたら、当時見たことのないタイプのコント55号を見ました。 NHKの合唱団に入っていて音楽番組に出させてもらったことがありましたが、お笑いを目指すという事はなかったです。 大学3年生の時に「素人コメディアン道場」に友人が葉書を出してしまって、それで行くことにしました。 第17代チャンピオンとなり、芸能界入りしたが、マイクを持っては震えてしまうし、全然駄目でした。 勝新太郎さんが後進を育てたいという事で「勝アカデミー」に第1期生として入校し、翌年卒業しました。 修業を積んで大将の事務所に入るようになりました。 大将は僕の引き出しに入っているものを綺麗に分類してくれました。 若いころに「お前は50ccのバイクなのに60km/h出してうるせえんだよ。 3000ccの外車は静かだよ。」と言われたことがあります。 力もないのに頑張っているのは良くないという事ですが、同じようなことを関根さんに言う時には「お前は100万円持っていると100万円見せるけれど、80万円隠して20万円見せる。80万円は余裕だよ。」と言うんです。
初めて大将の家に関根さんと伺った時に、講習が始まっちゃたんです。 嫌いなものを出されたらどうする。 喜劇の場合は「わー おいしそう」と言って戻すんです。 幼稚園児が大学院のゼミを聞いているみたいな感じです。 チャーシュー麺を出されたが、そのやり取り一つでも面白かった。 3,4時間滞在していただいて、関根さんと夕空を見上げて「あー 凄い人に会っちゃったね。」と言いました。 そういった教え方をしてもらったのは初めてで、足感がありました。
『欽ちゃんのどこまでやるの!?』に呼んでいただきました。 楽しい番組だから楽しそうにやっているのかと思ったら、「しーん」としているんです。 前の日に8時間ぐらい稽古をするんです。 周りの人から「お前たちは目の前で帝王学を教わっているんだぞ。」と言われました。 8時間もリハーサルをしたのに全然違う事を言うんです。 詰まってしまって返せないんです。 ヤカンを持つ手が震えてしまって、無理やり帰される形でもう首だなあと思いました。 後から大将が来て「おまえ なんであんなにあがっちゃうの。 俺あがらないやつは信用しないから。」と言うんです。
ご自分がテレビに初めて出た時に、16回NGを出して、「テレビは厭だ。浅草に帰る」といって、亡くなった朝日テレビの社長が「君は絶対成功するから一緒に会社作ろうと言って、今に至るわけですが。
テレビ番組『ライオンのいただきます』の話が来る何か月か前に、『欽ちゃんのどこまでやるの!?』の件で喫茶店で話をしていた時に、普段は目を見て話すことはしないのに、じーっと僕の目を見て別に相談とかしなかったのに、「お前ね、ピンの仕事は来ない」「お前は全部いっちゃうから」と言うんです。 そうしたら『ライオンのいただきます』が来たんです。 番組は毎回、多彩な分野で活躍する「おばさま」たちをゲストに招き、「おばさま」が答えるお悩み相談や、視聴者のはがきを交えたトークなどを軸とした番組でした。 当時28歳でした。 前の晩にこう言ってやろうとかいろいろ考えて、やっていたが数字が伸びなかった。 或る時に堺さんからアドバイスがあるという事で関根さんが預かってきました。 「なんであいつ、一人でしゃべってんの」て言ってたとのこと。 大将に言われたことがある。 その後又大将から言われました。 「お前はお客さんに好かれる、嫌われるの手前 客がお前を信用していない。」 要するに本音で言っていないから。おばさんに言われて困った時に、困った顔をお客さんに振ったんです。 そうしたらワーッとお客さんが笑って、肩に力を入れないって、こういう事なんだと思いました。
テレビ、ラジオから舞台に広がってゆく。 「小堺クンのおすましでSHOW」「 グッバイガール 」、「 リトルショップ・オブ・ホラーズ」、「 グランドホテル」など本格的なミュージカルにも挑戦してきました。 大将の教えは芸能界のマスターキーですね。 ジャンルを問わないです。
2004年 首の腫瘤の摘出手術のためにレギュラー番組を一時降板。 大将に会った時にいきなり僕を指さして「おまえ、死んじゃうの。」って言ったんです。 「治ったんです。」と言ったら、「なんだ後輩が先に死ぬと思ったのに。」と、これも言われたことがないです。 逆説ですね、治って嬉しかったんです。 仮装大賞の帰り、お年玉をもらうんですが、その裏に「神様、もう一機を病気にさせないでね。」と書いてあったんです。 まいっちゃいますね。
タケシさんが出てきて大将の笑いを一時否定する時代があったんですね。 ちょっと元気がなくて、翌週手紙が来て、その話が童話になっていて、「吸盤の付きのいいタコ(大将は昔タコと言われていた。)がいました。 吸盤をくっつけて我が世の春を楽しんでいた。ある日吸盤の付が悪くなってきた。 寿司屋の倅(僕の家は寿司屋)が飛んできて、いい吸盤の付いたタコがあるからと、吸盤を付けてくれた。 海に帰って助けてくれたその息子の自慢話をしているんです。」と言う手紙でした。 大事にしていたが一度引っ越して、どこかへ行ってしまった。 「探せよ、お前」と言われ「ハイ探します」と言って、或る時本棚からその手紙がはみ出していました。 「見つかりました。 出ていました。」と言ったら「だろ」でした。
手紙を書いてきました。 萩持欣一様
「私、小堺一機は欽ちゃんに笑いを、大将にリーダーシップを、萩本欣一に人間を教えてもらいました。 行く川の流れはたえずして、しかももとの水にあらず、まさにそれが貴方です。 会うたび目の前にいるのは一番新しい萩本欣一です。 かっこいい。 参りました。 出会えた幸福に感謝します。」 駄目弟子より