外山喜雄(ジャズトランぺッター) ・すべてサッチモが教えてくれた
今年はサッチモの愛称で知られた アメリカの歌手でジャズミュージシャンのルイ・アームストロングさんの生誕120年で、亡くなられてから50年という節目の年です。 ルイ・アームストロングに憧れて夫婦でジャズの故郷ニューオリンズへトランペットの武者修行に出かけ現在日本ルイ・アームストロング協会の会長を務める外山喜雄さんに伺いました。
ニューオリンズに5年間行ったときに、声を真似て歌っていた人がいて、私も真似てやっているうちに段々似てきました。 ニューオリンズでは真似をやっている人が多いですね。 ほとんどコロナで今は全滅ですね、たまにコンサートをやらせてもらう事もありますが。サッチモは生まれたのが1901年で、ここで本格的な解説書をまとめることが出来ました。
九州の筑後市に父が工場長で行っていて、東京から新入社員が転勤してきて、寮に行くルイ・アームアームストロングにもしびれましたが、「あさなゆうなに」、「アベマリア」といったムード的な音楽が好きでした。(小学校6年から中学生1年の頃) 映画でトランペットを吹くシーンがあり、それに憧れて買ってもらって自己流で始めました。 東京に戻って、高校の時には映画などでジャズ文化がどんどん入ってきました。 高校ではブラスバンドがあり名トランペッターが居まして、その人からジャズを教えてもらったりしました。 1963年に早稲田大学に行って、ニューオルリンズジャズカラーがあり、ニューオルリンズ、サッチモなど演奏していて、そこに入れてもらって、同時にジャズの巨人、ルイ・アームストロングは2回目ですが、ジョージ・ルイスのバンド、カウント・ベイシー、ライオネル・ハンプトン、デューク・エリントンなどが初来日してすごい時代でした。
ジョージ・ルイスのバンドが来た時にはくっついていました。 ルイ・アームストロングが京都に来た時には楽屋に押しかけました。 近くにトランペットがあったので思わず吹いてしまいました。
妻とはバンド仲間ですが、卒業して直ぐ結婚しました。 就職しましたが、又ニューオリンズからグループが来て、又のめりこんでしまってニューオリンズへの憧れがすごく頭で中に大きくなってしまって、行くことに決意しました。 ブラジル丸という移民船がありましたがそれでも片道10万円ぐらいかかりました。 ジョージ・ルイスのバンドのマネージャーとは知り合いになっていたので、彼を頼りに行きました。 若かったせいもありすぐに溶け込んでいきました。 ジャズホールで毎日聞いていました。 バンドに加えってもらって一緒に演奏をしたりしました。 妻はピアノでしたがバンジョーも習って、ほかに2,3人とで組んでやっていました。
ニューオリンズはロマンがあり、神話みたいに素敵で、ルイ・アームストロングの育ち自体が、スラムに育って、ジャズの言葉があるとしたら、ジャズ語を作ったのはルイ・アームストロングですね。 人種差別も乗り越えていつもニコニコ笑って、彼の持っているやさしさ、仕草などすべて好きですね。 彼は教会で歌い出して、子供で4人組のボーカルを作って、流して歩いていました。 大みそかに周りでおもちゃのピストルで撃っていたのを、父親の本物のピストル持ち出して撃ったら警察が居て少年院送りになってしまった。 そこではじめってコルネットという楽器を本格的に吹くようになるんです。 それが彼の生活をすっかり変える事になるんです。
スキャットはジャズで使われる歌唱法で、意味のない音(例えば「ダバダバ」「ドゥビドゥビ」「パヤパヤ」といったような)をメロディーにあわせて即興的(アドリブ)に歌うことで、1926年2月26日のこと、収録中に歌詞を忘れてしまい、適当な言葉で歌ったNGテイクがスタッフに受けて、そのまま使用されたのがこの歌唱法の起こりだという。
1994年にルイ・アームストロングファンデーションがニューオリンズにあり、その日本支部をやらないかとう話があり、日本ルイ・アームストロング協会が発足しました。 今年の7月で28年目になります。 日本人留学生がニューオリンズの隣町で射殺された事件があり、アメリカは今でも銃の問題が大変で「銃に変えて楽器を」というスローガンで、ニューオリンズは楽器がなくて、日本では使われなくなった楽器を寄付してもらうという事で協賛してもらう方がおおくて今まで続いています。 850本ほど楽器を送りました。 ハリケーン「カトリーヌ」がありましたが、その時にも楽器以外にも1300万円ぐらい送りました。 東日本大震災があったときに、私たちもびっくりしましたが、3月26日に楽器を無くした子供たちが居たらという話があり、仙台の気仙沼の子供たちが被災者支援緒コンサートに出たいが楽器がないという事でした。 100万円の寄付があり楽器を購入して、震災から1か月で楽器が届きました。 4月24日のコンサートには演奏できました。
送ってくれたスラムの学校の生徒たちと送られた生徒たちを合わしてあげたいと思ったら、相互訪問が実現しちゃったんです。
ニューオリンズとルイ・アームストロングが何に一番貢献したかというと、スイングすることだと思います。 スイングで日本を明るくしようと思います。
ルイ・アームストロングは1971年7月6日にニューヨークで亡くなり、地元の若者たちは横断幕を掲げて、「サッチモのスピリッツは永遠に」という言葉が忘れられなくて、本の副タイトルにも掲げています。