生島美紀子(神戸女学院大学 非常勤講師)・いま蘇る、忘れられた作曲家・大澤壽人 前編
神戸市出身の大澤壽人は昭和初期にボストンとパりに留学して現地では若手作曲家、指揮者として高く評価されました。 昭和11年に帰国し、戦前戦後を通じてラジオ、映画などの場で旺盛な創作活動を続け、1000曲近くの作品を残したのですが、おしくも1953年(昭和28年)47歳の若さで急死しました。 長らく忘れられた存在でしたが、2000年代になってその楽曲が知られるようになり、これまでに10枚以上のCDがリリースされて、オーケストラの演奏会も相次いで行われています。 膨大な資料をまとめて評伝を出版した大澤壽人プロジェクトの代表で神戸女学院大学文学部非常勤講師の生島美紀子さんに大澤壽人の生涯とその作品の魅力について伺いました。
作品は90年近く前に作られていますが、今聞いても斬新な感じ、新しい感じがします。 時を超える音楽の力をまさに実感させられます。 古関 裕而、古賀政男、服部良一などポピュラーな音楽の有名な作曲家と同時代にとんでもないクラシックの作曲家がいたという事です。
1906年神戸市に生まれました。 父親の大澤壽太郎は神戸製鋼の創業者の一人でした。 昭和初期にボストンとパりに留学、6年に及びました。 ボストンではすぐに若手作曲家として注目を集めます。 パリでは日本人として初めての自作自演の演奏会を開催して大成功をおさめます。 当時邦人作曲家としてあり得ないほどのまれなキャリアでした。
*交響曲第一番 作曲:大澤壽人
ボストンには4年滞在、交響曲第一番はこの時期を締めくくる大作です。 3楽章で構成されていて、楽譜は178ページもあります。 楽器構成、対位法、和声法などすべてに秀でていないとできません。 対位法は複数の旋律を、それぞれの独立性を保ちつつ、互いによく調和して重ね合わせる技法です。 和声法は西洋音楽の音楽理論の根幹をなすものです。 交響曲第一番は1934年に作曲しましたが、約80年間眠っていました。 2017年収録したCDが世界初演になっています。 当時ニューイングランド音楽院で学生が演奏を試みようとしたが、難しくて断念した作品でした。
母がクリスチャンであったので幼少から兄妹と共に教会学校へ通い、賛美歌やオルガンに親しんだ。 関西学院高等商業学部に進む。 学生時代から有名だった。 1925年にパリからピアニストが来日、関西学院の中央講堂でバッハからいろんなものを弾いてドビッシーに感動して、作曲家になりたいと決心します。 1930年(昭和5年)卒業した年にアメリカのボストンに私費留学、ボストン交響楽団は超一流で先進的で、先進的な音楽都市でした。 ボストン交響楽団の定期会員になり年間シート席を確保したいという事で、これこそ作曲家になる早道だと親を説得する。 ボストン大学では楽曲だけではなく指揮も評価される。 1932年小交響曲を書いて、ボストン大学にとっても学部生が作曲した初めてのオーケストラ作品です。 1933年にはピアノ協奏曲第一番を書いてボストン大学に提出した卒業作品で4年の過程を3年で終了します。 ピアノ協奏曲第一番は前衛的でありながらどこか日本的なところもあります。
1930年代は日本の作曲は黎明期にあったと思います。 そういった時代にボストンでとんでもない留学生がいると評判になったわけです。 1933年(昭和8年)には日本人としては初めてボストン交響楽団を指揮する。 世界恐慌で日本からの仕送りがピンチになるが、篤志家グールドさんが現れ助けてくれる。 1934年コントラバス協奏曲、交響曲第一番を完成させる。 交響曲第一番、コントラバス協奏曲、3つの田園交響楽章のすばらしさ、3つの田園交響楽章は今でもまだ初演されていません。
創作意欲がすごかった。 日本に戻って亡くなるまで走り続けた。
28歳でパリに向かう。 1935年管弦楽団を自ら指揮して交響曲第二番、ピアノ協奏曲第二番、日本の歌曲「さくら」を発表する。 ピアノ協奏曲第二番のピアノ演奏をしたのは作曲家に成ろうと決心した関西学院の中央講堂で聞いたピアニストでした。 世界のキラ星と言われる作曲家も聞きに来ていて大成功を収める。 大絶賛を浴びる。
*交響曲第二番 作曲:大澤壽人
様々な独奏楽器とオーケストラが対話するように進んでゆき、この時代の交響曲としては珍しい作り方になっていて、壮大に鳴らすこともできる、独奏楽器のそれぞれの特徴を表しながら繊細にも作れるという、そんな感じで音楽が進んでゆく。
1936年日本に帰国する。