川内美加(マラソンランナー川内優輝選手の母)・【アスリート誕生物語】
2時間ちょっとのレースの間、最後まで走れるのかなといつも心配でいっぱいです。 2018年4月のボストンマラソンで日本人として31年ぶりに優勝して、2019年4月にプロに転向。 以前から走ることにだけ仕事にできたらどんなにいいだろうなあという事は言っていました。 それを後押しするものを本人は欲しかったと思います。 それがボストンの優勝だったように思います。 ほぼ同時に結婚もしましたが、直前まで何も話さずに来ました。 パートナーもランナーです。 今年の2月の琵琶湖毎日マラソン、2013年のソウル国際マラソンで出した自己最高記録を大幅に更新する2時間7分27秒、30代で7分台をマーク。
買い物に行ったスーパーにちびっこ健康マラソン大会の選手募集という張り紙を見て、親が勝手に応募してしまいました。(小学校1年生) 距離は1500mでした。 100人ぐらいの参加者がいましたが、5位に入りました。 優輝が長男で次男が芳輝、三男が光輝です。 小さいころはなかなか言葉が出なかったんですが、話し出したらよくしゃべって、結構興味のあることにはとことんのめりこむタイプでした。 決めたことは最後までやり通すことはありました。 スポーツはやってほしいと思って居ました。 夫はボクシング、私は高校までり陸上の中距離走をやっていました。
幼稚園の頃は幼稚園ではスポーツに力をいれていてサッカー、体操、水泳、スケート、スキーなどやっていました。 マラソンは最初に5位になり、翌年は2位でした。 3年目は4位でした。 練習を日課にしました。 1秒でもいいから前のタイムより良くなるようにと激励しました。 目標に達しない時にはもう一周走るとか罰ゲームをしました。 そのタイムがあまり遅いとさらに走らせるとかしました。 1秒でも更新した時にはご褒美として、飲みたいものとか食べたいものをあげました。 旅行が大好きでした。 大会後には観光に行ったり、温泉に入ったりして大変喜んでいました。
最後まで全力を尽くして走ることは当時からありました。 つらそうな表情も昔からありました。 中学では陸上部に入り、学校の先生にお任せしようと思って応援のほうに回りました。 負けず嫌いなところがあるので、勉強のほうも頑張っていたと思います。 得意な科目は社会で、地理とか歴史でした。 勉強で学年で10番以内を目指していて入っていたようです。 埼玉県立春日部東高校に進学。 駅伝にシフトする。 怪我が多くて、大会に出場出来ないことも結構ありました。 足の怪我が多くて練習のし過ぎという事もあったと思います。 少し良くなると又練習をして又怪我をするとか苦しい時だったと思います。
大学は学習院、箱根駅伝の強豪校ではなくて、楽しく走れたらいいなあと気持ちを変えたようです。 箱根駅伝の強豪校に行ってほしいと思っていたのでちょっとショックでした。優輝が高校3年生の終わりごろに、夫が心筋梗塞で亡くなりました。 息子にとっては一番の理解者だったと思います。 学年選抜で2年と4年の時に箱根駅伝で6区を走りました。 夫に見せてあげられなかったことが心残りですね。
埼玉県庁の職員になる。 監督、コーチもいないし、いろんな遠征先の手配などすべてをやっていたのですが、事務職採用だったので、そんなに苦にはならなかったようです。 大会前日には勝負食としてカレーを晩に2,3杯食べます。 朝は国内ではご飯でしたが、海外ではご飯は難しいので、朝はパンに切り替えていきました。 定時制の高校の事務を10年間やってきました。 午前中練習時間に当てて、午後から出勤して、帰りは10時過ぎになります。 その生活を繰り返してきました。 練習を休むことはなかったです。 睡眠は7時間半を必ず取っていました。
2011年東京マラソンで日本人でトップの3位、世界選手権では団体で銀メダル。 2014年アジア大会銅メダル、2017年ロンドン世界陸上大会9位、2018年ボストンマラソンで優勝、今年の2月の琵琶湖毎日マラソンでは33歳で自己ベストを更新、フルマラソン2時間20分以内で完走したレースが100回を越えて、ギネス世界記録に認定。 少しずつ努力すれば、達成できる目標を積み重ねていったことが、こういった結果を残せたと思っています。