2021年7月17日土曜日

生島美紀子(神戸女学院大学 非常勤講師) ・いま蘇る、忘れられた作曲家・大澤壽人 後編

 生島美紀子(神戸女学院大学 非常勤講師) ・いま蘇る、忘れられた作曲家・大澤壽人 後編

1936年(昭和11年)30歳になる年に帰国します。  帰国して半年の間で東京と大阪で帰朝演奏会が開かれている。   東京でのプログラムはパリで大成功した演奏会の再演です。  大阪では小協奏曲からスタートしてオーケストラ伴奏による歌曲が並びます。  いずれも新作で英語、フランス語、日本語の3つの言語が用いられました。  アメリカ、フランスで学んできたというその成果を日本で披露するという、成功したんだという意図があったと思います。 

事前の評判は高かったが、厳しい批評に晒される。  とりとめのない作品だとか、いろんなことを書かれる。   日本はドイツ音楽の需要から入ったので、素地が違うというか。  辛口批評の理由としては、①音楽文化の問題、前述のことと、当時はまだ日本はレベルが低くて先生はそこを越えてしまっていて、世界の最先端を目指していて、音楽の作り方が全然違う。 日本の批評家たちは理解できない。 そうすると作品が未熟だからと言われてしまう。 ②もう一つは時代、 日中戦争の前夜という事で、英語、フランス語、日本語を並べるとは何事かというわけです。  

*ピアノ協奏曲3番 (神風協奏曲とも言われている。) 1938年帰国の翌年に制作

ダイナミックで疾走感があり、これが80年以上前に作曲されているとは思えない。   神風協奏曲とも言われているが、1937年 朝日新聞社がイギリスの戴冠式の祝賀の飛行機の飛行をして、これが日本とヨーロッパの最短時間飛行の記録を作った神風号に由来するもの。

1940年には日独伊3国同盟が締結されて戦時色が濃くなってゆく。

1937年 交響曲第3番  31歳の時に発表。 (建国というタイトルがつけられる。)1940年は紀元2600年を迎える年で日本各地で祝賀行事が開催される。 それに先がけて作曲された。  しかしモダンな曲で辛口の批評を浴びるという、繰り返しになってゆく。   「燕に託して母の歌える」という女性の合唱作品があって、日中戦争に息子を送りだした出征兵士の母の歌で、毎年飛来する燕に託して切々と歌う反戦歌なんですが、表立って反戦と言えない時代です。   当時の日本は複雑で生きることが難しい時代だった、そういうところに先生は帰ってこられた。

*「たぬき」  1941年(昭和16年) 「たぬき」という曲を発表している。    サトウハチローさんの詩に基づいています。  演奏会はできないので先生の活躍の場はラジオでした。  オペレッタのような楽しい音楽劇。  

1946年(昭和21年) NHKラジオ歌謡の番組に7年の間に10曲制作。      大阪放送局ではレギュラー番組を持つようになる。  民間放送局ができるとそこの専属指揮者になる。  精力的に活動する原動力は ①終戦と同時に制限がなくなり、押さえていたものが解放されてのびのびと活動ができるようになった。   ②疲弊した世の中に対して、音楽を通じて社会にどう貢献するか、という事につながったと思います。

1950年(昭和25年) NHK大阪放送局で「BKシンフォネット」という番組をスタートさせる。  1951年 「シルバータイム」で プロデュース、構成、指揮も全部担当する。昭和26年朝日放送が開局して局の音楽をどんどん作ってゆく。   昭和27年には「ABCホームソング」という番組が始まり、13か月で49曲作って、楽しい時代の家庭で聞ける歌をどんどん作ってゆく。

*「猫の子あげますいらっしゃい」    作詞:竹中郁 作曲:大澤壽人

忙しい中多ジャンルの芸術家との共同事業を楽しんでいました。  超人的にこなしていました。

昭和28年10月27日 大澤壽人は脳出血で突然倒れて亡くなる。 この日には関学の同窓会に出席する予定だった。   家を出て三宮で突然倒れた。 47歳。

もし大澤壽人があと10年生きていたら、テレビへの時代になってゆくときでもあり、現代の日本の作曲界は発展の方向が違っていただろうと思います。  無念の一言に尽きます。ピアノ協奏曲3番(神風)、交響曲第3番(建国)がリリースされて、芸術祭奨励賞のレコード部門の最優秀賞を受賞して、この作品は凄いけれど書いた人は誰、大澤って知らないというような感じで、これが大澤ブームのきっかけになるわけです。

関西フィルハーモニー管弦楽団で連続して大澤作品が取りあげられ、演奏会も開かれるようになる。 2013年にはピアノ協奏曲1番を80年ぶりに演奏されましたが。いずれも先生ご自身で聞いていらっしゃらない。 2006年 大澤壽人生誕100年という事で遺品が神戸女学院(大澤壽人が教鞭をとった学校)に3万点の資料が保存されることになる。