吉弘辰一(林業家) ・亡き兄と災害に強い山を目指して
福岡県久留米市で木材を販売する製材所を営んでいます。 2017年7月の九州北部豪雨で、同じく林業家の兄
新しい森林の産業機械の展示が3年振りに行われて、二人できました。 林業は瀕死の状態から少しは起き上れた状態かなと思います。 国土の7割近くが林地で、7割の資源を我々は無駄にし過ぎしてきたのかなあと思います。 国の成長の原動力の一部としてとらえるべきではなかったのかなあと思います。
私は製材所に婿養子出来ています。 小川姓でしたが、28歳の時にお見合いをさせられて、その相手が吉弘さんでした。 結婚して製材所を継ぐ意識はそれほどなかったんです。 木材市場でセリ人をしていました。 結果としては良い嫁さんに出会ったと思います。 2年ほどしてうちの製材所の経営状態が良くないことに気付きました。 木造建築の製造工場だったのを ホームセンター専門の工場に変えてゆきました。 15年ぐらいでスイッチングしましたが間違ってはいなかったと思います。
私は物心つたときからヤギの乳しぼりをやっていました。 レンゲ畑に放牧して育てたりしていました。 周りは山ばっかりでした。 男兄弟二人と女兄弟3人でした。 兄は父から受け継いだ林業をしぶしぶやっていました。 現金収入が少ないので兄はトラックの運転手もしていました。 父は私が中学2年生の時に亡くなりました。(58歳) 兄は本腰をいれて林業に取り組みだしました。 私は18歳で工業高校を出て、飛行機関係の仕事に就き楽しく過ごしました。 仲間で福岡に集まって将来小型飛行機を作る会社を作ろうじゃないかという事で、みんなでお金を稼ごうとしていました。 オイルショックを経験してこれでは食っていけないという思いがあり、福岡市木材協同組合職員募集というチラシを見て、行きました。 木材市場での経験、飛行機、船の技術的なスキルがたまたま足し算が出来て、特殊な製材所にのし上がることが出来ました。
私は原木市場に製材所として買い付けに行きました。 兄は原木として出荷する立場なんです。 うまく林業界で連携が出来ていきました。 2017年7月の九州北部豪雨で大きな被害が出て、兄が命を落としてしまいました。 みるみる空が真っ黒になって何か起きていると思って、兄の携帯電話に電話をいれました。 呼び出すんですが出ないんです。 しばらくして又掛けたら通話中の信号でした。 実は通話中は水に浸かって流された証拠でした。 私は久留米市、兄とは川を挟んだ対岸の朝倉市でしたが、様子が全く違っていました。 又来るかもしれないので林業の在り方を根から変えなくてはいけないなと思いました。 森林の整備の在り方を見直そうという事で議論をして、強い山作りをやって行こうじゃないかという事で進めている途中です。
兄が目指していた林業というのは、結果として強い山作りなんだなと気が付きました。 持続的に林業を経営してゆくためには、こうあるべきだという哲学を持って経営していました。 手入れの行き届いた山ばっかりでした。 適切な間伐がなされて治山治水が結果としてうまくいっていったと思います。 間伐が行き届いていない山は真っ暗で草がない。 そこでは小さな石が流れてゆき低いところに集まり、もっと大きの雨が降ると小石の集団がどっと流れます。 その時の力は木を押し倒す力があります。
間伐が進まない理由は、費用が発生する。 100万円の山を作るのに200万円の経費を使うのかという話なんです。 30年ぐらいそんな林業が続いていました。 間伐をやらない日本の林業にしてしまった。 後継者も育てない、だから山も育たないという悪循環にはまってしまいました。 レーザーにより詳細な地形のデータが判るので、地形の傾斜角度が判ると木がない山の状態が見えてくる。 建築基準法で言う崖が30度で、崖崩れがしているところは30度以上が多いんです。 土砂災害は自分達では防げないが、流木災は最小限に食い止めることができるんではないかと思いました。 樹齢60年程度の木を30度ぐらいの傾斜勾配から低い地に変えていった方が土砂災害が起きた時に被害が少なくなるのではないかという視点で進めています。 災害防止に寄与することも山作りの一つの手ではないかと思います。
間伐をするとマイナスになっていたものが、バイオマス発電が朝倉にもできて、原価割れしない程度で買い取ってもらえるようになったので、マイナスにはならない程度になりました。 県有林、国有林は貴方の持ち物ですよと言っています。 ニュースなどに出てくる山に関してアンテナを立てていただきたい。 山への見方が変わってくると思います。 薄い黄緑が増えたという事は山が荒れている証拠です。 針葉樹の山が減っているという事になります。(手入れされなくなった山が増えた。) 若い人たちが楽しんで林業が出来る、そんな職場つくりをしていきたいと思っています。 山作りの前の人つくりだと思います。