2022年10月6日木曜日

クミコ(シャンソン歌手)         ・愛と平和を歌って40年、ウクライナに思いをはせて…

 クミコ(シャンソン歌手)    ・愛と平和を歌って40年、ウクライナに思いをはせて…

1954年茨城県生まれ、大学在学中に演劇から歌の世界に飛び込み、当時新人の登竜門だったヤマハのポピュラーコンテスト、世界歌謡祭にも出場しましたがデビューは叶いませんでした。 その後1982年伝説のシャンソン喫茶と言われた「銀パリ」のオーディションに合格、そこからプロ歌手としての活動が始まって、その後作詞家の松本隆さんをはじめとして多くの音楽家や歌手が注目する歌手として作品の提供を受けてきました。   2011年3月11日東日本大震災が起きた時は西巻のコンサートのリハーサル中で、身一つで避難しました。  節目節目で人の心を揺さぶる歌を歌って来たクミコさんの40年、お話を伺いました。

伝説のシャンソン喫茶と言われた「銀パリ」から40年というのは言われるまで気が付かなかったです。  「銀パリ」に地下に降りるにしたがって生の音楽が聞こえてくるなんて、素晴らしい体験をして、シャンソンはこういうところで歌われている場所なんだと知ったのは、20代そこそこでした。  そこで歌い始めて40年とは振り返ってみるとビックリな事ですね。 

自由になりたい、そのためにはもっと変な人に会いたいと思って、早稲田なら絶対いると思って、演劇ならもっと変な人がいると思って、舞台に立ちたいという思いもあり、早稲田大学に入学しましたが、演劇がアングラ時代に入っていて、こんなのありというような時代で、「木霊」という不条理演劇の中で歌うシーンがあり、それがとてつもなく気持ちよくて、歌ってなんて素晴らしいんだろうと思って歌に変ってしまいました。   

1978年、24歳の時第16回ヤマハポピュラーソングコンテストに出場。  就職何て考えて居なくて、友達に誘われてバンドに入って、世界歌謡祭の最後まで行けましたが、入賞できずそれで終わってしまって、人生浪人が始まってしまったと思いました。   「銀パリ」ではオリジナル曲とサントワマミを歌って、入ったらシャンソン歌手になってしまったという感じです。  初めての舞台では物凄く緊張しました。  一日6回歌って1080円で、人生ちょろくないと思いました。   

2002年の「わが麗しき恋物語」 新しいシャンソンの形を模索しようという事で、その中に一曲でした。   人生の無常を感じるような斬新な歌詞で、それが皆さんに届いたのが嬉しかったです。   2010年には広島の原爆で亡くなった佐々木禎子さんをモデルにした「祈り」という曲で、甥御さんが作ったものを渡されました。  彼も被爆2世で被爆したことに対して不安をもって生きていました。   アメリカにも渡って歌っていろいろな方と会うことができました。   歌が私を成長させてくれているんだといつも思います。  

戦後65年という事でNHKの紅白歌合戦にも出場しました。  私は歌い手としては仕事と家庭は別にしたいタイプなので、家族を客席にというようなことはあり得ないことでした。 2016年ウクライナのキーウにあるチェルノブイリ博物館でも「祈り」を歌う事になりました。   たまたまチェルノブイリ事故後30年ということで、ロケに行きましょうと言う事で、そこでも歌えるという事を聞きましたので、光栄だなと思いましたし、実際どういうものだったのかという事を検証したい、その地に立ちたいと思いました。   コーディネータ―兼通訳の人、ビタリさんという男性の方が歌が好きで日本の演歌を歌っちゃうんです。(ユーチューブで聞いて覚えて)  戻ってきてからもスタッフがフェースブックでやり取りして仲良くしていました。   仲良くなったことが逆に辛い思いをすることになってしまいました。

私にとってシャンソンは社会とつながる、歌がツールの一つで、社会性の有る歌が好きでした。  その中でも「愛しかないとき」を初めて自分の言葉で歌いたいと思った、世界と自分の関わりについてみたいな愛ってどんな意味があるのかとか、そういう歌を歌い始めたのが40年前で、初心にかえって録音し直そうということは決まっていましたが、まさかその時にウクライナ侵攻が始まるとは、夢にも思いませんでした。  これはちょっとまいりました。   理不尽に虐げられて行く立場の人たちに向けられた歌で、戦いもそうですが、そんな中で愛とはどういうものかを突き詰めてゆく歌ではあると思います。   自分で日本語に訳詞しました。   レコーディングの日程は全部決まっていましたが、本当にこんなことがるのかと思ってがっがりしてしまって、皮膚感覚でぞっとしてしまってそこからは困ったなと思いました。   私がビタリさんにエールを送るつもりで「愛しかないとき」をアカペラで送ったら、返りの歌が私の「祈り」の歌でした。  歌ってくれているんだと思いました。  歌で遠い距離が繋がって又一緒に生きて行こうという気持ちになりますね。    

レコーディングをした時には、以前「愛しかないとき」を歌っていた時には、愛は凄い、愛は不滅と、心の有り場所立ち位置ははっきりしていましたが、初めて足元がぐらつくという感覚で歌った思いがありました。    愛は凄い、愛は不滅って本当なのというように、気持ちが弱くなって、弱くなってもいいやという思いで歌いました。  

*「愛しかないとき」  歌:クミコ

これからの人生を考えた時に、凄くリスペクトする方とご一緒したいという思いがあり、菅原洋一さんだなと思いました。 音楽として歌として最高峰の形を示してくれているなと思うんです。  菅原さんの凄いところは89歳にして色っぽいところなんです。   色っぽく歳を重ねる男の方はなかなか難しいなか、優雅な香りをまといつつ色っぽい香りをまといつつ、本人は淡々と歌われる。  「今日でお別れ」を選んだ理由は、以前デュエットする機会があり、感情が盛り上がって抱きしめたくなっちゃいました。  、デュエットするんだったら「今日でお別れ」にしたかったので、快く受けていだきました。  切なくて途中で泣きが入っているような声になっちゃって、感極まりました。  

*「今日でお別れ」  歌:クミコ、菅原洋一

12月4日に六本木のコンサートで菅原さんとデュエットします。            私がほかの歌い手さんとちょっと違うのは、死生観みたいな歌が結構多くなってしまっていて、本当は歌って希望とか光を求める中で、自分はなおかつ死生観みたいな歌を歌ってきたという複雑な思いがします。  傷ついた方が涙されることが多かったのでその涙が浄化作用に役に立ったならいいかなと思います。  生きる事と死ぬことが同次元で歌っていける歌があれば やって行きたいと思っています。