2022年10月24日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】 中原中也

 頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】  中原中也

詩人中原中也は明治40年山口県生まれ、昭和12年10月22日に30歳の若さで亡くなりました。没後85年になります。  

汚れつちまつた悲しみに 今日も小雪の降りかかる。  汚れつちまつた悲しみに 今日も風さえ吹きすぎる。  汚れつちまつた悲しみは  たとえば狐の皮    汚れつちまつた悲しみは  小雪のかかつてちぢこまる  汚れつちまつた悲しみに なにのぞむなくねがふなく 汚れつちまつた悲しみは  倦怠のうちに死を夢む  汚れつちまつた悲しみに  いたいたしくも怖気づき  汚れつちまつた悲しみに  なすところもなく日が暮れる。」   中原中也

結婚の翌年刊行した詩集『山羊の歌』、中也の死の翌年出版された第2詩集『在りし日の歌』の2冊の詩集を残している。 

山口県出身で中原中也と私(頭木)は同じ学校でした。  太宰治檀一雄は熱海でさんざん飲み食いして遊んでお金が払えなくなってしまった。  檀一雄を人質にして太宰治が東京へお金を借りに行くという話がありました。  戻ってこないので借金取りと一緒に太宰治を捜しに行くと、井伏鱒二の家で呑気に将棋などをしていた。  檀一雄が怒ると、「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」と言う風に言ったとのこと。   檀一雄は随分人をひどい目に合わせているが、檀一雄を太宰治はさらにひどい目に合わせている。   その太宰治をさらに上回るのが中原中也です。  それを檀一雄は2冊の本に書いている。 中原中也は飲み屋で太宰治に絡み始める。  

「酔いが回るにつれて例の凄絶な中原が絡みになり、太宰はしきりに中原の鋭鋒?を避けている。 しかし、中原を尊敬していただけにいつの間にかその声は例の甘くたるんだような響きになる。  「はい、そうかしら」そんなふうに聞こえてくる。  「なんだ おめえは あおさが空に浮かんだような顔をしやあがって  ぜんたい おめえは何の花が好きだい。」  今にも泣きだしそうな声で 途切れ途切れに太宰は言った。   「お お の は な」?、 「だからおめえは」 その後の乱闘は一体誰と誰が組み合ったのか  いつの間にか太宰の姿は見えなかった。」

別の時にも3人で飲んでいて中原が太宰に絡むんですね。 

「太宰は中原から同じように絡まれ逃げて帰った。  中原はどうしても太宰のところに行くと言ってきかなかった。 雪の夜だった。  家を叩いた。  太宰は出てこない。  「なんだろう 眠ってる? 起こせばいいじゃねえか」  勝手に二階に上がり込んで大声でわめいて中原は太宰の消灯した枕元を脅かしたが、太宰はうんともスンとも言わなかった。  あまりに中原の狂態が激しくなってきたから私は中原の腕を捉えて、そのまま雪の道に引きずり下ろした。  「この野郎」と中原は私に食って掛かった。  たわいのない腕力である。 雪のうえに放り投げた。」  

中原中也は太宰治をひどい目に合わせ、太宰治は檀一雄をひどい目に合わせて、檀一雄は中原中也をひどい目に合わせるんですね。

その後中原中也と檀一雄は女性のところへ遊びに行くが、

「3円を2円に根切りさらに1円50銭に値切って宿泊した。  中原は1円50銭を支払う段になって又1円に根切りあげるとそうそう追い立てられた。  雪が夜中の雨にまだらになっていた。   中原はその道を相変わらずうそぶく様に「汚れちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる 」と低吟して歩く。   やがて車を拾って川上鉄太郎氏の家に出かけて行った。  多分車代は同氏から払ってもらったのではないだろうか。」

いろんな友達と絶交されたりすることもあったようです。  一方でとっても魅力があったようです。   小林秀雄が中原中也について「初対面の時から魅力と嫌悪と同時に感じた。」と書いています。  

詩人の茨城のり子が中原中也について以下のように書いています。

「残された詩やたくさんの人たちが書いている思い出話を読むと、次々と友人たちと絶交し、人に絡み吼え、人に敬遠されるという風で、痛ましい青春の炸裂音が鳴っています。」 

痛ましい青春の炸裂音が鳴っています。」という表現がぴったりだと思います。

「サーカス  サーカス小屋は高い梁  そこに一つのブランコだ  見えるともないブランコだ   頭倒(あたまさか)さに手を垂れて   汚れ木綿(もめん)の屋蓋(やね)のもと  ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん ・・・・」    中原中也(詩集『山羊の歌』のサーカスの一部)

僕(頭木)が病院で中原の詩を読むようになったきっかけはこの詩なんです。  ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」というブランコが揺れる雰囲気が出てますね。

「わが生活  私は苦しかった そして段々人嫌いになって行くのであった  世界は次第に狭くなって  やがては私を絞め殺しそうだ   だが 私は生きたかった  生きたかった」    中原中也(失恋した時の思いを書いた随筆の一節)

同棲していた女性が別の男性のところに行ってしまう。 しかも別の男性というのは親友だった。  親友というのは小林秀雄なんです。 

中原中也は医者の家の長男として生まれる。  小学校時代は学業成績もよく神童とも呼ばれた。  山口中学校に12番の成績で入る。 数か月後には80番に落ち、翌年には120番まで落ち、ついには落第してしまう。(文学にのめり込む。)   16歳になる時に京都に転校、一人で下宿生活をする。  3歳年上の女優長谷川奏子と出会い同棲するようになる。  18歳になるちょっと前に二人で東京に出てくる。  小林秀雄と出会って親しくなる。   18歳の時に長谷川泰子は小林秀雄のところに行ってしまう。  引っ越しの手伝いなどもする。    

「友に裏切られたことは、身も知らぬ男に裏切られたことより悲しいということは誰にでもわかる。  しかし、立ち去った女が自分の知っている男のところにいるという方が、知らぬ所へ行ったというより良かったと思う感情が私にはあるのだった。」

こうも言っている。 「私はもう悔しかった。  私は悔しき人であった。」

それで段々人嫌いになって行く。 孤独になって普通死にたいと思うが、中原中也は   「私は苦しかった そして段々人嫌いになって行くのであった  世界は次第に狭くなって  やがては私を搾め殺しそうだ   だが 私は生きたかった  生きたかった」 というんです。   

「・・・・・・ あゝ おまへはなにをして来たのだと……  吹き来る風が私に云ふ」 (帰郷)

「 月夜の晩にボタンが一つ   波打際なみうちぎわに、落ちていた。 それを拾って、役立てようと は思ったわけでもないが なぜだかそれを捨てるにしのびず  僕はそれを、たもとに入れた。  月夜の晩に、ボタンが一つ  波打際に、落ちていた。  それを拾って、役立てようと  僕は思ったわけでもないが  月に向ってそれはほうれず  なみに向ってそれは抛れず  僕はそれを、袂に入れた。  月夜の晩に、拾ったボタンは 指先にみ、心に沁みた。  月夜の晩に、拾ったボタンは どうしてそれが、捨てられようか?  (月夜の浜辺)

落ちているボタンは役には立たないが、中原中也はボタンに違う魅力を感じるわけです。 ごみとして捨てることはできない。  人間も役に立つか経たないか、見られがちです。 基準がそこだけなんて狭すぎますね。  

幼 年 時 私の上に降る雪は 真綿(まわた)のようでありました   少 年 時  私の上に降る雪は霙(みぞれ)のようでありました    十七〜十九  私の上に降る雪は 霰(あられ)のように散りました   二十〜二十二  私の上に降る雪は  雹(ひょう)であるかと思われた    二十三   私の上に降る雪は   ひどい吹雪(ふぶき)とみえました  二十四  私の上に降る雪は  いとしめやかになりました……」    (「生い立ちの歌」の前半) 

雪の降り方で自分の人生を表している。

「不幸が人を磨く  本当だよ」  (中原中也の二十歳の時の日記から)

26歳で結婚して文也という男の子が生まれて、この子をとってもかわいがる。   29歳の時にNHKに就職しようとしたが落ちてしまう。  文也が2歳の時に亡くなってしまう。  その後心を病んで精神病院に入院することになる。   思い出の家が厭で退院後鎌倉に引っ越す。  結核性脳膜炎で亡くなる。(30歳)

「私は常に夢見ている。  夢を見ようとも見まいともしないで私は夢見ているのである。 これは私が衣食住してゆくことの上には、大いに不便なわけでそれは年来の経験で否が応でも知っている。  そうして不便が嬉しくはちっともない。  しかし、人生にはどんなすさんだ社会にもなお小唄があるように、詩人というものは有るものなので、その詩人なるものに多分は生まれついてる。  いな、それ以外ではつぶしのきかないのが私というものだったのである。」   (「わが生活」の一節)