山崎真(キリスト教伝道文化センター 元・館長)・平和の願いを引き継いで30年
1937年(昭和12年)生まれ、85歳。 30年前からアメリカ人写真家の作品展を開いています。 写真は終戦直後の日本を撮影したものですが、その中の一つが長崎で撮影された「焼き場に立つ少年」です。 この写真は5年前ローマ教皇が、これが戦争がもたらすものと世界に紹介しました。 山崎さんが30年前から写真展を開いてきた経緯は何か、原爆直後の長崎を写したアメリカ人写真家の思いはどのようなものだったのか、山崎さんに伺いました。
「焼き場に立つ少年」はローマ教皇がこれが戦争がもたらすものと世界に紹介した有名な写真です。 亡くなった幼い弟をおんぶして荼毘の順番を待つ半ズボン姿の少年の写真、直立不動で裸足で哀しい気持ちを必死にこらえている。 高校生の英語の教科書にも掲載されている。 アメリカ人カメラマンのジョー・オダネルさんが撮影したとされる写真です。 アメリカ海兵隊の従軍カメラマンで日本の空襲の記録、その後の日本を記録するという事で長崎、広島など各地の写真を撮影した。
盛岡にキリスト教伝道文化センターがあり、アメリカの教会を訪ねるツアーをやっていました。 1992年1月にアメリカ、テネシー州のナッシュビルを訪問して教会にお世話になり、そこにジョー・オダネルさんがいまして、写真を見せてくれました。 吃驚して、日本で写真展をしたいことを話しまして、写真を持ってくることが出来ました。
私たちを連れて行った宣教師は昭和23年に日本に来てボランティアで日本の復興を3年間するという事でしたが、そのまま日本に残って宣教師として働いていた方たちです。 ラーマズさんご夫妻、特に奥様のマルタ先生は最初の勤務地が広島の広島女学院の家政科の先生でした。 ラーマズさんと結婚して20年ぐらいして盛岡のキリスト教センターに来ました。 マルタさんはアメリカの教会の人たちに原爆がどれほど恐ろしいものかという事を知らせたいと、私と話し合って折り鶴を折って、佐々木禎子さんの物語を英文にしたものと併せてアメリカの各地の教会に送っていました。 ナッシュビルを訪問してジョー・オダネルさんに会う事になったわけです。 ジョー・オダネルさんが撮影したのは23歳の時でした。
「焼き場に立つ少年」を撮影した ジョー・オダネルさんは、その時背筋が寒くなるような光景だったといいます。 ボロボロの服、裸足で背中に幼い男の子が括り付けられ、眠っているように見えた。 係員が背中の幼児を燃えさかる火の上に乗せる。 火は勢いよく燃えあがり少年の顔を赤く染めた。 少年は背筋を伸ばして気を付けの姿勢でじっと前を見続けた。 涙が出ないほど悲しみに打ちひしがれた顔、私は彼の肩を抱いてやりたかった。 彼は急に回れ右をすると背筋をピッと張り、歩み去った。 一度も後ろを振り向かないままで。
写真はジョー・オダネルさんの屋根裏のトランクに40年以上保管されたままだったそうです。 それらはジョー・オダネルさんの任務以外の写真でした。 自分用のカメラを買って長崎、広島など約300枚の写真を撮ったようです。 ジョー・オダネルさんが日本に来たのは9月2,3日なので原爆の生々しい様子が残っていた。 原爆がこんなに酷い恐ろしい、間違ったものであるかを、長崎の惨状を観て知って考えが変わって行ったようです。 写真は9月から翌年3月までの間で撮り続けました。 アメリカに戻って情報局のホワイトハウス付きのカメラマンとして働き、20年ぐらいすると体調の異変に気付きました。 背中にケロイドが出てくる、腕もやけどのようになる。 病院に行っても何が原因か判らないと診断されたそうです。 その後入院して20数回手術をしたそうです。残留放射能の影響だと言う事は後で判ったそうです。
体調が少し良くなった頃、ケンタッキー州の或る修道院に美術品の展示を観に行ったら、キリストが十字架に張り付けになっている彫刻があり、そこに原爆で亡くなった子供たちの写真が体中に貼ってあった。 それを観たジョー・オダネルさんは自分の写した写真を出してみようと思ったそうです。 その彫刻も買い取って自分の家に飾ったそうです。 写真展をしたがアメリカではあまりよく思われなかった。 家族からも反対を受け、子供たちも出ていき、奥さんとも離婚して、でも信念を曲げないで、原爆は間違った方法であったという事を言い続けました。 そういう状態の時に私らが行きました。 日本で写真展をやらせてほしいと頼んだら、彼は即座にOKをしてくれました。
ジョー・オダネルさんは2007年8月9日長崎原爆の日に亡くなりました。(15年前) めぐりあわせの不思議さを思いました。 アメリカに行った1992年10月に盛岡で第一回の写真展を開きました。 30年間写真展を開いてきて300回に近い回数となります。 ジョー・オダネルさんは写真展に何回か来てくれましたが、かつて子供たちに笑顔がなかったのが、笑顔があることに凄く嬉しかったと言っていました。 戦後50年経ってジョー・オダネルさんの写真を集めて写真集を作って話題になりました。 アメリカではどこに頼んでも写真集を出版するという事はなかったが、亡くなる少し前になってナッシュビルの大学の出版部が写真集を出してくれることになりまして、私もジョー・オダネルさんの奥さんから送られたものを一冊持っています。
ジョー・オダネルさんが残した言葉、「これほど残酷な人災があるだろうか。 これは人類に対する重罪だ。 もはや沈黙してはいられない。 過去は自分なりに正当化することはできる。 だが未来は平和でなければならない。 平和なくして未来はあり得ないのだから、過去は変えられないが、未来は変えることができる。」
アメリカの人がアメリカに向かっていう事は勇気のあることだと思います。 ジョー・オダネルさんの遺志を継いで写真展をやって行こうと思ったわけです。 私は85歳になり、写真展も長くは続けられないので、他の平和活動の方で若い人もいますので、実行委員会を結成してもらって続けてもらおうかなと思っています。