中村梅玉(歌舞伎俳優) ・いつまでも二枚目の心意気で
重要無形文化財(人間国宝)の知らせを頂いた時には有難いことだと思いました。 歌舞伎という素晴らしい伝統、文化だという事を改めて思っています。 その担い手であることに誇りに思っています。 素晴らしい歌舞伎という芸術を後の世までも残さなければいけないという、使命感を感じています。 六代目中村歌右衛門(人間国宝)は父ではあるんですが、師匠であり、神みたいな人ですから、父の境地にたどり着いたなんて夢にも思いません。
六代目中村歌右衛門の妻が私の実の叔母だったので、親戚関係にはありましたが、養子に決まったのは初舞台の前年でした。 昭和31年の正月に『蜘蛛の拍子舞』の福才で初舞台を踏みました。(9歳) 舞台に立つ事は面白かったです。 松本 白鸚さん、市川 猿翁さん、去年亡くなった中村吉右衛門さんも3人とも女形の腰元で出ていました。 白鷗さんにおぶさって花道を入った覚えがあります。 まずは日本舞踊、三味線、長唄、鳴り物のお稽古には必ず通わなければいけません。 歌舞伎役者としての一つの修行です。 早退したり部活もできず日常の稽古は厭でした。 声変わりで苦しかったことは余り無いですね。 若い衆も先輩がやっていたので我々にはいい役が回ってこないのは当たり前のことでした。
東横ホールで若い人だけの歌舞伎がそのころ始まって、良い役を与えていただきました。 お正月の舞台で弟と二人で「夫婦道成寺」をやらしてもらって、しばらくぶりの主役を頂きました。 一人前になるスタートラインだった気がします。 父がつきっきりでいろいろ教えてくれました。 昭和42年八代目中村福助を襲名、責任を感じる舞台でした。 父からは「これからが本当の修行だよ」という事は言われました。 その時は『絵本太功記』十段目の武智十次郎と『妹背山婦女庭訓・吉野川』の久我之助を演じました。 これで方向性が決まって、父が私は立ち役のほうに向いていると見込んだと思います。 福助時代は25年続きました。
三代目梅玉が早く亡くなってしまって梅玉という名前が途絶えてしまっていて、それを継がしたらどうかと思ってくれたんだと思います。 襲名した当時は三代目さんをよく知っている方が多かったので、大反対をした人がいたという事は後で伺いました。 私は使命感が勝りました。 これも30年になります。 三代目梅玉は女形だったので、梅玉の四代目として自分なりの道を進まなければいけないという事を自覚して、四代目梅玉を作り上げるのが目的でしたので、一人前になれたなと思う時点で梅玉という名の使命を果たせたのかなと思います。
人間国宝に指名されて、後輩に歌舞伎という素晴らしい舞台芸術を伝えてゆくという使命があるので、いろいろと口出しをしていってもいいのかなあと思っています。 先輩たちの素晴らしい芸を私を通じて教えるという事が大切だと思います。 父の言葉としては、「大きな舞台に立って様になるような品と格を大事にしなさい」という事ですね。 器用貧乏のような役者にはなるなという事ですね。 ではどうすればいいかと言う事は言ってくれなかったですね。 父は「道成寺」を1000回以上踊った時に、しみじみと我々に言ったのは、「1000回踊ってもまだこの程度なんだよ」と言っていたのを今でも覚えています。 芸の深さは怖いぐらいの話ですね。 満足したらそこでおしまいなんですね。 でも或る意味これが苦労ではないんですね。 自分としては楽しくて考えられる余裕が出来て。今日はこういう風にやってみようというゆとりが出来て、それが楽しくてしょうがないですね。
今回第三部、源氏物語の夕顔の巻、舞踊ですがそれに出て、もう一つ「盲長屋梅加賀鳶(めくらながやうめがかがとび)」主役の相手役をやります。 源氏物語の夕顔の巻では光源氏役なのでちゃんと貴公子ぶりが見せられるかそこが勝負なので緊張もしています。 「盲長屋梅加賀鳶」は主役道玄を遣り込める相手方なので、後輩が相手なので遣り込めてやろうと思っています。