2023年3月9日木曜日

村上清(元・国連職員 観光企画会社社長)・被災地からの"脱却"でふるさとへ恩返しを

 村上清(元・国連職員 観光企画会社社長)・被災地からの"脱却"でふるさとへ恩返しを

今年で12年を迎える東日本大震災で被災した東北からのメッセージ。  第1回目は陸前高田市から。  岩手県の南東部太平洋に面した陸前高田市は東日本大震災による津波でおおきな被害を受けました。  海岸線にあった高田松原はなぎ倒され、そのすぐ背後にある市の中心部だけでなく海岸から8kmある内陸部まで津波が到達し、壊滅的な被害となりました。  この陸前高田の復興を民間の立場から支えようと、震災直後から奔走してきた人がいます。  元国連職員で観光企画会社社長の村上清さんです。  村上さんは陸前高田の出身で、アメリカの大学に学び、外資系金融機関のほかUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の緒方貞子さんの元で仕事をした経験も持っています。  目指すは被災地からの脱却という村上さんに12年の復興支援の歩みとこれからの展望を伺いました。

広田湾は牡蠣に限らず養殖が100%、湾口が向いている方向に大きな震源地が二か所あって、それで直接津波が広田湾に入って来ました。   だから被害が大きかった。  うちで牡蠣筏108個ぐらい持っているが、ひとつ残らず全部壊されてしまいました。         震災後全国のボランティアの人たちが集まってくれて、ボランティアの人たちが牡蠣筏を作ってくれました。   2年間かかって470個作ってもらいました。  

陸前高田の食や海を体感しようという今回のモニターツアーですが、カキの養殖の見学、味わったり盛りだくさんの内容です。  今年で大震災から12年になりますが、陸前高田は何にもなくなってしまった場所でした。  ハードな部分も10年でやっとできあがって来て、陸前高田の資源をもっと皆さんに提供することで、地元の皆さんに少しでも潤っていただけるのが大事なんだと思います。  

村上さんは陸前高田の出身で、父親がタクシードライバー、母親は町で美容院を営む。   小さいころはパーマ屋の坊やだと言われて皆さんに可愛がってもらいました。   中学生のころは短波放送で世界のラジオを聞くのが好きで、太平洋の向こう側に興味を持って、高校卒業後、サンフランシスコに留学。  世界の放送局から入って来て素晴らしいと思いました。  アメリカの大学に学び、外資系金融機関のほかUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)で5年間経験しました。  2011年3月11日は外資系金融機関に勤めていて、香港に出張中でした。  作り酒屋の酔仙の工場が写っていて、そこが波に飲み込まれる映像でした。  山に近いところだったので、そこが飲み込まれるという事は陸前高田市全部が飲み込まれたという事は直ぐ判りました。  我が家も全滅だという思いで帰ってきました。  

陸前高田出身会があり、まず情報を集めましょうという事になりました。  支援物資をリストアップしながら、UNHCRで先遣隊の派遣とか実際にやっていたので、まずは救援することから始めないといけないと思いました。   市役所が全滅していて400人弱の職員の中で111名がなくなっていました。  残りの方々も家族を亡くして、住む場所もなくなっています。   そんな中で職員は災害の対応をしなければいけなかった。  私は6日目に必要な物資をスーツケースに6個詰めて、花巻空港から陸前高田に入りました。  市役所はないので、給食センターが対策本部になっているので、そちらに行くように言われました。   市長に物資を渡して、家族はどうなっているのか聞いたら、子供たちは学校に行っているからいいが、妻が見つからないと言われました。  抱き合って泣きました。

自分が経験してきたことを最大限出さないといけないと思いました。    残った被災された方々の安全確保、必要なものをどこかから持ってくる、その手段、必要なことをみんなに伝える手段、経験から世界に向けて陸前高田はこういったことが必要だという事を多言語で発信することが必要だと思いました。     陸前高田の細かいことはわからないので、当時の状況を写真に撮っていた方がいて、その写真をパネルにして展示してもらえるといいと思って、写真展を開くことになりました。(5月末  青山で行う)    在京大使館に知り合いはいませんでしたが、紹介状を送りました。(10本)  大使とか来ていただきましたので、私が説明しました。   大使館側としてどうしたらいいのか、こういうことは出来ると話が出ました、   

シンガポールの人に対しては学校を建ててくださいと言いました。   20億~30億円ぐらいかかるかも知れないと言いました。  シンガポールからの支援は7億円を受けられました。    陸前高田のコミュニティーホールを建てることになりました。  学校は文科省から災害復旧という事で対応できるという事が後で判り、急遽市民が集まる場所へと変えました。  必要な建物だったので、そのことはこちらから大使館側へ要望しました。  

可能性というものはいくらでも広げることができると思いました。   1%のチャンスがあったならばそれにかけてみる。   そこから広がる可能性がある。  陸前高田と国内外での支援を通しての交流が出来ることになり、これを生かさない方はないと思って、アメリカのジョン・ルース大使にお会いする機会があり、我々の方で教育プログラムを何か考えようという事になりました。  陸前高田の中学1,2年生を横須賀の基地に3泊4日のホームステーを企画しました。  それが最初の「TOMODACHIイニシアチブ」(公益財団法人 米日カウンシル-ジャパンと東京の米国大使館が主導する官民パートナーシップで、日本国政府の支援も受けています。)です。  その後、教育、文化交流、リーダーシップといったプログラムを通して、日米の次世代のリーダーの育成を目指す、という風に様々変化してゆきます。  仮設住宅にいるような時に、全く違った環境、文化に浸ることが出来たことは、凄くよかったことだと思いました。  いろいろな選択肢の機会を与えることが大事だと思います。 

一貫してやっているのが、国際連携です。  会社を作って旅行会社をしているので、新しいインバウンド(主に旅行業界・観光業界で使われていた言葉で、簡単に言うと「外国人の日本旅行」(訪日外国人旅行客)という意味)という部分においても、そういった方々に来ていただく、という事を進めています。  陸前高田の特産品の売り込みも行っています。    サンフランシスコで陸前高田フェアーをやって、大変好評です。  特に鯖、鰯の缶詰と生ものが欲しいと言っています。   新しい映像を見せると、あの瓦礫の街がこんなに綺麗になったのかと、吃驚されます。