従野孝司(元・レーシングドライバー) ・六甲山から始まった「ル・マン」制覇への道
毎年6月にフランスで行われ、その名の通り丸一日を走りぬく人にも車にも過酷な耐久レースです。 第1回大会がちょど100年前、大正12年という歴史あるレースで、いまから32年前1991年日本車が初優勝を遂げました。 ドライバー3人は全員外国人でしたが、優勝車両マツダ787Bの開発に携わったのが、神戸市出身のドライバー従野孝司さんです。 現在は広島にお住いの72歳、10歳年上で兄で2016年に亡くなったマツダのワークスドライバー片山義美さんと共にロータリーブラザーズと呼ばれ、自身もルマン24時間レースに1982年から出場しながらマシーンを開発、栄光を手繰り寄せました。 その道のりや優勝マシーンと六甲山との意外な縁などを語っていただきました。
小学校のころは神戸市加納町に住んでいました。 家にマシーンがありました。 それを有効に使って、兄が偉大なものを僕に与えてくれました。 兄はスズキの2輪だけではなくて4輪のロータリーのマツダと契約ドライバーになっていました。 練習車があっていい環境を与えてくれたのは事実ですね。 兄の主宰した神戸木の実レーシングに所属し、カワサキのワークスライダーとして活躍しました。 モトクロスの場合は市販車に近いものなので、ロードレースよりもモトクロスの方が入り易かったです。 その後4輪に転向してゆくわけですが。 或る日兄から4輪も練習するように言われました。 通勤で360ccの軽四輪で通って六甲を通っていました。 ブレーキングは大事なテックニックだという事を思いました。
マツダ787Bがル・マンで優勝した一つに役に立ったのは、ブレーキのテクニックが近未来のブレーキシステムにぴったり合っていて、そのアイディアをル・マンに使おうではないかという事で、すんなりテストできたという事が吃驚しました。
コーナリングを速く走ることは難しいです。 2分40秒というタイムが一つの壁になっていて、リアウイングを付けることによって2分35秒ぐらいになりました。 フロントにもつけてみようと思ってつけてみたら、更に2秒タイムが良くなりました。 兄がトライしてみたら2分32秒までになっていました。
グランドチャンピオンシリーズに参戦しはじめたころは、主力のエンジンは西ドイツ製のBMWというエンジンで、それにたいしてロータリーエンジンを対抗しようとしていました。性能的にはほぼ同じでしたが、剛性という面ではちょっと不利でした。 ロータリーエンジンは130mm軸が高いんです。 レーシングカーにする場合、速く走るのにはよくないんです。 メーカーに要望して100mm下げることによって、シャーシ性能が上がりました。 オイルパンはエンジンの一番下にあって、潤滑油を貯めておく盥のようなもので、それが要らないドライ散布方式に変えることで、一気に100mm下げることが出来ました。 それにより性能が向上して優勝することに成りました。 1977年初優勝、78年、79年と3年連続優勝しました。
ル・マンはガソリンを2550Lに決めてから各メーカーが力を入れ始めました。 6kmの直線コースがあり走ってみると怖いです。 かまぼこ状の一般道路なので走ると車が蛇行するんです。 2分で速度が飽和して350kmぐらいになります。
ロータリーエンジンというのは、繭のような形をした燃焼室の中でおむすびのような形をしたローターが回転するという事で、往復運動する一般的なレシプロエンジンとはかなり違う。 2ローターで始まって1986年には3ローター88年には4ローターになって行って、91年にル・マンで優勝を迎える。 1ローターで150馬力で4ローターだと600馬力という事ですが、90年ぐらいから25馬力向上することが出来て、4ローターで700馬力になりました。 量産グループの若い開発メンバーがアイディアを出してきました。 3プラグの採用もあり燃費も向上して、燃費、性能が向上しました。
優勝した1991年のマツダ787Bマシーンには、ブレーキを改良しました。 数年前からF1などではカーボンブレーキが主流になっていて、ル・マンに使えないかと思って、1時間テストをやって使うかどうか決めることになりました。 このブレーキは緩く踏むとブレーキの表面を研磨するみたいな感じになり、ブレーキが利かない。 踏むか、離すかの使い方をしないといけない。 六甲山でのブレーキの方法が役立ちました。 燃費も良くなってくる。 使う事に直ぐ決定する。 新しいことを取り入れるチャレンジは大事だと思いました。