2023年3月25日土曜日

角田雄二(実業家)            ・〔私の人生手帖〕

 角田雄二(実業家)            ・〔私の人生手帖〕

角田さんはスターバックス コーヒー ジャパンを創業者で、1941年神奈川県生まれ、大学卒業後目指していた建築家を交通事故のため断念、その後日本料理店の経営に手腕を発揮して、40歳でアメリカに渡って、行列ができる程のレストランなどを成功させました。     1995年アメリカで広がり始めていた新しいスタイルのコーヒーチェーン店にいち早く注目して、シアトルの本社と交渉し、弟の鈴木陸三さんと共に日本での事業をスタートさせました。   この3月の店舗数は1800店を越える一大コーヒーチェーン店になりましたが、どんな困難があって、どんな信念で乗り越えてきたのか、ビジネスに賭けた人生と共に、事業に対する嗅覚などについても伺います。

コーヒーは高校、大学のころから砂糖を入れないのが流行りだと思って、苦くて、そんなコーヒーでした。  アメリカに行って多く飲むようになりました。  コーヒーの淹れ方はフレンチプレス(ティーポットのような形状した抽出容器)です。  沸騰したものに4分間待って、めんどくさくなくて非常にいいですね。   コーヒーと共に朝ご飯を大切にしています。   

生まれは神奈川県の逗子でした。  5歳の時に終戦が来て、当時は食べ物はなかったです。   家では酒とか、炭、餅などもついてお客さんに配達していました。  早い時点で父親がスーパーマーケットを手がけました。    経営工学部の中の建築、機械そういう系統の大学でした。  就職して8mぐらいのところから転落しました。  1か月ぐらい気が付かなくて、足首を骨折してしまっていました。   その事故の影響により会社を辞めることになりました。   結婚して300年以上続いている日本料理旅館で、冬場はお客さんが来なくて1年の1/3は暇な状況でした。   何とかしようという事で父親がいろいろアイディアを出してくれて、大きく変化して軌道に乗りました。  

40歳でアメリカに渡ることになります。   日本料理を持って行けば戦えるのではないかと思いました。   実の弟が輸入雑貨の会社をやっていました。  やることがいろいろ違うので、1年間は行って調査をしました。  10軒に料理を持ち運びました。   顧客リストを1000軒作って、マーケティングをしました。  順調に行きました。   1992年にレストランを作りました。   スターバックス のコーヒー店の1号店がオープンしました。  入ってみて椅子席がいくつかあり、テイクアウトもありました。    何を頼んでいいかわからなかった。  紙コップが素敵でコーヒーも美味かった。    店員の笑顔も良かったです。    

シアトルの会長のところにそういった感じたことを手紙にしたためて出しました。    食べ物については一回考えてみないか、と言うようなことも書きました。        手紙のことを忘れていたら電話がかかって来て、一回こちらに来ないかという事でした。    弟も会社が拡大していて、これと組むといいかも知れないと思いました。        フランスにいた弟に話をして、シアトルに来てくれてそれから話が始まりました。    1995年に全く対等の事業(資本、権限など)としてスタートしました。       契約が1995年、1号店が1996年に出来ました。  1店舗作るのに何千万円とかかる。    上場する前から1年で100軒、2年連続して立ち上げました。上場して赤字になって叩かれたこともあります。   出店の数、パッケージのクオリティーの問題もありました。  食べ物については永遠の戦いがあります。   

広告会社にお金を一切かけないという事にしています。  マーケティングは命だと思っています。  ブランドを作り上げるには店舗、人にお金をかける。 それと新しい商品を必ず開発する。   コーヒーを安く作ってくれる人たちに対して、土壌から何からお金を投資して、いい商品を生み出せる環境を作る、そこのフィードバック、マーケティングがあります。   日本に展開する店舗の数は、最初の思いは50~100店舗と思っていました。   300軒出した頃に第一次の危機がありました。   物流から人の成長からバランスよくついてこない。  作り方もいい加減になってしまう。   どこに店を出したらいいかという事も甘くなる。   乗り切るには、初心に戻るという事だけでした。

お店のブランドを作るのは店舗だと言っています。  サポートするのは会社で、お客様、従業員が喜ぶためには何をするか、こちらには関係ないという、明確な目的を持っていて、この人たちを活躍させる活かし方が話にならないほど素晴らしいものを持っていました。   1軒がいかにお客様に喜んで貰えるか、働いている人がいかに生き生きしているか。  店を作りながらのマーケティング、そしてその先を提案する。  失敗したり上手くいったりの連続で過ごしてきました。  しつこくやってきたのが良かったのかもしれません。