田尾陽一(NPO法人理事長) ・ふくしま・飯舘村の再生をめざして
田尾さんは現在81歳、東京大学理学部大学院生の時に東大紛争に参加、東大全共闘議長山本義隆さんんとは盟友でした。 その後学習塾経営や今のIT企業の先駆けとなるベンチャービジネスを手がけ、大手警備サービス企業の役員を務めました。 リタイア生活を送っていた時に起こった東日本大震災、田尾さんは福島再生の会を作り、福島県飯館村で新たな地域つくりを行ってきました。 福島飯館村への思いとその波乱にとんだ人生について伺います。
飯館村に移住して6年になる。 その前も週に2回とか毎週通っていました。(11年前から) 飯館村の面積は230平方kmと大きな村です。 福島第一原発からは5月に解除される南の長泥地区が35kmぐらいです。 ここからは50kmないですね。 2011年4月22日に政府から全村避難地域に指定されました。 事故からは1か月以上たってからテレビで官房長官が言ったそうです。 みんな驚いていました。 緊急避難場所として1000人以上受け入れて炊き出しなどやっていました。 大混乱に陥り、村の周辺の市町村にお世話になったようです。 当時6000人ぐらい住んでいました。 今年1月では在住村民が1502人,帰村者が1226人で、200人以上が移住者です。 移住者の会があり、新しい生き方をしたいという若者ですね。 「福島再生の会」は300人弱で、60,70歳以上が多いです。 一番多いのがサラリーマンで、大学関係、公務員だった人とか、医者、看護師、教師だったとかいろいろな人います。
1941年横浜に生まれました。 両親が勤めをしていて、東京、横浜に爆弾が降って来て、子供だけでも避難させようというので、父親が広島で、爆心から9kmの実家に預けられました。 4歳だったのであまり覚えてはいませんが、B29が飛んできて、珍しいというので祖父と手を繋いで見ていました。 広島の方向でピカっとしました。 間に島があって遮ったと思います。(直射はしていなかった。) 1960年に東大の理学部に進み、大学院では高エネルギー加速器の研究をする。 光の速度に限りなく近い粒子を加速していきますが、素粒子物理学の実験装置です。 ドクターコースに入った1968年ぐらいから東大闘争が始まります。 率先して参加しました。 医学部で、6年間、卒業しても無給でボスの教授に支配されている、という事に反逆したんですね。 安田講堂に立てこもりました。 安田講堂を後に新しい公共空間と呼ぶようになりました。 庶民そのものが公民なんです。 公共というのは庶民が作っている、これは民主主義の基本です。 個人自体が公共そのものなんです。 公共空間というのは、民主主義の基本という空間が安田講堂の中にできてしまった。 東大生だけではなくて、全国の大学生が交流し、話し合う。 労働者、山谷の労働者も来ていました。 自分たちの考え方も深まってゆく、これこそ公共空間であると確信出来ました。
飯館村で、原発事故とは何だったのかとか、近所の人と議論しています。 突然変なものが降って来て避難させられて、これは何なの、というのが未だに判らないわけです。 どう再生させるのか、子孫にどんな森林をを残すのかとか、この辺のおじいちゃんおばあちゃんは考えています。 安田講堂に立てこもったのは裁判になって、執行猶予3年でした。 加藤総長は希望があるなら復学を許すという事はうわさで聞きました。 自分の研究を再開するということはいかなかった。
喰うのに困った連中で南学習塾をやったり、その後シンクタンクを作ろうと思ってやりだしました。 最初は自治体のコンサルタント、地域つくりの計画作りなどをやっていました。 マイクロエレクトロニクス革命の技術革新が起こって、パソコンの雑誌RAMの編集長として創刊しました。 インターネットのセキュリティーがポイントになると思って、セキュリティーソフトの開発を含めてやっていました。 その後横浜市の市長が横浜の子供科学館を作りたいと言う話をキャッチして、応募してみようと思いました。 60億円ぐらいの建物を含めたものであり、私たちはその中身のデザインを応募したら通っちゃいました。 凄く興味を持って動いているうちに市からくれるお金の差額が2億円ぐらいになってしまっって融資を求めて動きました。 その時に第二電電グループの稲盛さん、飯田さん、牛尾さんに第二電電はインターネットで勝負すべきだと、プレゼンテーションして、それで子会社として作ることになり、東京インターネット株式会社の社長になりました。 インターネットのセキュリティーだという事でいろんな開発をしました。 赤字を抱えながら投資をしてくれました。 セコムのCIOを引き受ける。 私がセコムのシステムをインタネット化するという話がまとまりました。
2005年にやることがあるという事で会社を辞めることにしました。 学生時代に日本の山はほとんど登ったんですが、世界の山を登ろうと思いました。 主にヒマラヤ地域、カラコルム地域、マッキンレーです。 チベットへ行こうと仲間もそろえていたところに3月11になってしまいました。 キャンセルして、個人的に動き始めました。 取り敢えず情報収集をしました。 テレビでの政府での発表は疑わしいなと思いました。 友人の物理学者がスタフォードの教授をやって居たりして、いろんなところにいるんでそこをネットワークでつないで、私が司会役みたいにして、話し合う中でメルトダウンは早めに断定していました。 水素爆発が起きて、次に連鎖反応(原爆)まではいかないなとは思いました。 個人的に第二原発の近くまで行って観たりしました。
個人的にではなく仲間を増やして現地で活動を開始しなければ駄目かなと思いました。 16人仲間が集まって(科学者、医師とか)、6月6日に南相馬に行っていろんな人と話しました。 帰りに飯館村に立ち寄りました。 避難指令が出ているのにまだ残っている人たちがいました。 2時間ぐらい話をする中で、私は避難するが、あなた方みたいに熱心にやる人が来るならば、私は避難先から戻って一緒にやりますよ、って言ってくれたので私は再生の会を作ろうと思いました。 帰ってからすぐに企画書を作って。7月の頭には第一回入り始めました。 土日つぶして入ることをずーっと繰り返してきました。
まずは放射線の測定から始めました。 手作りのGPS付の性能のいい放射線測定器を作りました。 森林、田んぼのなかの土は、とかいろんな計測を開始しました。 徐染の方法についていろんな議論をし、試行錯誤しました。 環境省は一律5cm剥ぎ取りを決めてしまいましたが、いろんな方法があると思って試していました。 田んぼの中で代かきがありますが、重機でかき混ぜます。 代かきを利用して攪拌して表面近辺の泥水を掻きだして、干上がったところに綺麗な土をかぶせる、そうすると田んぼのほとんどが除染されて、綺麗になってゆく。 実験をしました。 畜産ではほとんどの方が飯館牛を処分して避難して、戻ってきた人が10軒ぐらいですかね。 そういった人たちを応援しています。
残った人たちは高齢者中心に1500人ぐらいで、コミュニティーが老人クラブみたいになってしまっていて、新しい課題だと思います。 若手が独自のコンセプトのもとに立ち上げてゆく、そこに明るい兆しがあります。 町のホームセンターの跡地を借りて、アート、サイエンス、テクノロジー(農業、林業、畜産業を再生する技術)、そういった空間作りがかなり進んでいます。 村民と共同したりして、アートの世界でも活動しています。 仕事の面ではツアービジネスとかでお金を落としてもらって、という様なビジネスも進んでいます。 起業してゆく人を応援してゆく。 自然と人間の関係を現代人はどう考えているか、自然を壊してまで電気とか明るい文明というものがあるのという、現代文明を作ってきたこの2,300年、歴史の転換点を迎えるかもしれない。 もう一回地球という自然の上に生きている人間が自然界を道具としてみて、それを利用すればいいという我儘な発想じゃなくて、自分たちを自然界に内包された存在だという事を、見直して本当に新しい文明のやり方を作らないと21世紀はやばいかもしれないと言うのが、私の考えです。 食料とエネルギーと人間の健康、これを守れれば、自立できる。 地域同士で自立して、これが地球で成り立つという事を考えないとまずいんじゃないか。 外国からツアー出来て、どう反応しているかというと凄く喜んでくれている。 よく聞くと悲惨なんだけれども、それを再生してゆく中に、自分たちにとっても凄く参考になると言ってくれる人は多いです。