池井優(慶應義塾大学名誉教授・日米野球交流史研究家) ・〔スポーツ明日への伝言〕 野球に魅せられて
長年日本とアメリカの野球交流史の取材や研究を続け、東京六大学野球、プロ野球、アメリカ大リーグなど野球の魅力を伝える多くの著作を書き、NHKの大リーグ中継の解説もしてきました。 今年1月88歳の池井優さんに伺いました。
古関 裕而さんの野球殿堂入りが決まりました。 日本には戦前戦後にかけて多くの作曲をした3大作曲家がいて、古賀政男、服部良一、古関 裕而。 古賀さん、服部さんは国民栄誉賞を貰っているのに、古関さんだけは遺族が辞退された。 古関さんは夏の甲子園に流れている高校野球大会歌「栄冠は君に輝く」、早稲田大学の「紺碧の空」、ハンシンタイガースの「六甲おろし」など名応援歌をたくさん作っている。 東京五輪の選手団入場行進曲「オリンピック・マーチ」、NHKスポーツ中継テーマ「スポーツショー行進曲」など、音楽を通じて野球を初めスポーツを盛り上げた。
野球の殿堂に入れたらいいんじゃないかと言ったら、そんなこと考えたことなかったという事でした。 福島県の関連の団体などが「実現する会」を作ったんです。 最初の選考の年は2票しか入りませんでした。 14人の投票で11票入らないと駄目です。 翌年4票、次の年が10票で駄目、今年決まりました。 福島は大騒ぎした。 NHKの朝ドラの「エール」も追い風になりました。
藤山一郎さんについて「藤山一郎とその時代」も書きました。 流行歌手と思っている方がほとんどだと思いますが、最初はクラシックの歌手を目指していました。 東京芸術学校(芸大)在学中に家が倒産するかもしれないという事で、アルバイトをしなければいけないという事で、藤山一郎という芸名で「酒は涙か溜息か」を歌ったら大ヒットしてしまった。 呼び出されてあわや退学というところでしたが、普段の態度が真面目で、家の家計を助ける為だったという事で、停学2か月(冬休み含め)となった。 インドネシアで捕虜になった時に捕虜収容所の人たちをアコーディオンで慰めたとか、日本歌手協会の会長として社団法人化に努力したり、作曲もしています。 「ラジオ体操」は藤山さんの作曲です。
野球と出会ったのは戦後すぐです。 アメリカの占領政策の立案者が考えたのは、日本の占領をスムースにするためには天皇と野球を利用することだという事で、天皇は全国を巡行して歩かれる、NHKが六大学野球、プロ野球の中継放送、野球映画の上映をする、という事で広げていった。 当時の川柳に「六三制野球ばかりがうまくなり」というのがありました。
ゲーリークーパー主演の「打撃王」という映画でルー・ゲーリックという2130試合連続出場という、ベーブルースと組んで3,4番を打っていた。 筋萎縮性側索硬化症に罹ってしまう。 ゲーリークーパーは右利き、ルー・ゲーリックは左利きという事で苦労してなんとか映画を作った。 その映画を観て野球への夢が膨らみました。夢かなって、1964年ヤンキースタジアムに行って外野席で観ることが出来ました。 大リーグのことについていろいろ関心を持っていきました。 NHKが大リーグの放送をするようになって解説を依頼され解説したりしました。
大リーグの取材をしに行きましたが、日本からこんなことに取材をしに来てくれたのかと感激されました。 シアトル・マリリナーズにマイク・ケキッチ選手がいますが、一時期日本で投げて、大リーグにカムバックしたという選手がいて、会わせて欲しいと申し込みました。 試合開始2時間前に来てほしいという事で行ったが、30分経っても来なくて電話してもらったら忘れていたようです。 お詫びのしるしとして始球式をやらせるという事でこちらから頼みもしないのに向こうから言ってきて、大リーグの始球式をやったのは私ぐらいでしょうかね。 当時はスタンドから投げる方式で投げる前に簡単な経歴を紹介してくれました。 そのボールを貰いました。
現地の少年野球に参加したことがありました。 こんなに楽しかったことはないです。 教え方が決定的に違うのは、子供たちを楽しませる、喜ばせるためにはどうすればいいかという事を考えています。 硬球だと怖いので、怖がらなくなるような工夫をいろいろしています。 コーチたちは、こんなに楽しいベースボールは明日もやりたい、5年後、10年後もやりたい気持ちにさせることだというんです。 一生野球を愛してゆく土壌が出来るんですね。
日本で活躍した外国人選手のその後がどうなっているのか、或る雑誌社から頼まれました。 バッキー・ハリス 日本に来た外人選手第1号です。 1934年にベーブルースが来て、当時日本でもプロ野球(職業野球)が出来る。 1936年から日本職業野球連盟が出来るが選手が足りないために、ハリスに声をかけてきてもらって名古屋軍というチームに入りました。 一生懸命読み書きをしました。 書くことまで勉強したのはこの人だけだと思います。 結婚して子供が生まれて帰る事になり、球団代表に言いたいことを英語で言ってカタカナで書いてもらって、そのあいさつ文が凄いんです。 「職業野球は皆様のお引き立てがなければ立ち行きません。 今後ともごひいきに願います。 皆様のご壮健をお祈りいたします。 さようなら」 横浜港からの出航の際に、何個かの50銭銀貨に紙で包んで見送りの人たちに投げて、その紙には「カナシクテ カナシクテ サヨナラガイエマセン」と書いてありました。
アメリカに帰って後、日本との戦争が勃発して、通訳として日本語をもう一度勉強し直して、レイテ島の捕虜収容所に送られました。 その中に阪急の補欠キャッチャーの人でハリスのことを覚えていた人がいて、その後捕虜の態度が一変したという事でした。 戦争が終わり、ライバルだった水原茂さんなどが、ハリスさんを呼ぼうという事になり、再度日本に来ました。 後楽園球場が一杯になって、ハリス歓迎の夕べをやり皆さん大喜びでした。
南海ホークス(現在のソフトバンクホークス)に来たジョー・スタンカ、思い出が2つあります。 1961年の対巨人戦運命の一球、この1球で勝利という時に、1ストライク2ボールからボールと判定されてその後さよならヒットを打たれて負けます。 キャッチャーの野村と共にボール判定に対して猛抗議するが、成らず。 スタンカの家には「円城寺あれがボールか秋の空」 詠み人知らず という色紙が飾ってあります。
1964年の阪神対南海の日本シリーズです。 阪神は村山、バッキーの二枚看板、南海はスタンカしかいない。 阪神3勝、南海2勝でスタンカが完投して勝って3勝3敗となる。 スタンカに連投を要請、6回ぐらいを交代という考えでいた。 結局完投してシャットアウト。 帰国後、鶴岡監督の声がかりで、お金を集めて家族を日本に呼んで、スタンカを囲む夕べを行いました。
阪神のジーン・バッキー、親しめる人柄で、彼は日本で育った外国人選手だと思います。 ルイジアナ州に大きな牧場を持っています。 夫婦で日本時代のことを沢山語ってくれました。
日本の野球は非常にすそ野が広いです。 メディアも広げていった。 戦争で野球が厳しい状況に置かれたが、野球の単語を日本語にして、繋いでいった。 村上雅則が大リーグに行き、それから30年経ってから野茂が行きます。 その後イチローが行って、ホームラン全盛時代だったのが、考える野球が復活して、大谷翔平というベーブルース以来の二刀流という事で、日米野球150年の中で野球の神様が与えてくれたソーシャルプレゼントではないかと言う気がします。
「学問と野球に魅せられた人生」昨年出版。 楽しく生きるためにはどうしたらいいか、4つの核を実行しています。 ①ものを書く。 ②汗をかく ③恥をかく(恥をかきながら学んで行く、知らないことは調べる) ④未来を描く(過去の経験、歴史から未来を考えてゆく)
電車のなかではスマホを見る人がほとんどで、川柳で「絶滅危惧種電車の中の読書人」とか詠んで毎日が楽しいです。