大木トオル(音楽家・国際セラピードッグ協会創始者)・犬に助けられた私の人生
大木さんは東京都日本橋人形町生まれの75歳。 4歳で吃音症になって学校でいじめに遭い、犬が唯一の友達でした。 12歳で父が事業に失敗して一家離散となり、犬を連れてゆくことが出来ず、そのことがずっと心に残っていたと言います。 しゃべると言葉が詰まるのですが、歌ならばすんなりと歌えたことから、歌が心の支えになり10代後半には歌で稼ぐようになります。 30代でアメリカでセラピードッグを知り、それをライフワークにしようと捨てられていた雑種犬チロリをセラピードッグの先駆けとして育て上げました。
私が45年前アメリカに行った時に、セラピードッグは70年以上の歴史があるんですね。 人間の心や心身のケアする、病気を助ける、リハビリを促進する、そういう役目を持った犬たちです。 高齢者の認知症の問題があり、日本では年間に1万人以上を担当しています。 その中の70%が認知症で、その認知症の緩和です。 それをセラピードッグと共にやってゆきます。 脳梗塞とかの病気をしますと、後遺症が出るので、後遺症のリハビリを促進するために一緒に歩行したり、しゃべったり、手を動かしたりという事を一緒にセラピードッグがやります。 がんの延命、子供たちの教育現場にも入って行きます。 障害者の施設などにも行きます。 失語症の人も犬の名前を呼ぶことによって段々会話を引き出してゆく。 一時期コロナで出来なかったのですが、再開しました。
カリキュラムがあって2年以上かけて学びます。 歩く速度、車椅子の誘導の仕方、障害物のよけ方、杖を付く人に合わせて誘導して行く、そういったことを覚えます。 45協会あります。 チロリはセラピードッグ第一号ですが、最初杖を見て逃げだしました。 恐怖心を直していきました。 セラピードッグの共通点は全員が捨てられてガス室に入って殺される寸前という事が共通点なんです。 酷くいじめられてきたような生き方をしてきたわけです。 人間不信、恐怖心もあります。 最初の半年は一緒に暮らして安心感を覚える。 それからトレーニングに入って行きます。 究極に追い込まれたこの子たちが全力の力を出している姿は、やっぱりあの子たちは痛みを知っているんです。 それを乗り越えると高齢者、障害者の痛みがわかるわけです。 それを自分が助けようと夢中になって来る。 人間に対する忠誠心、愛情の深さだと思っています。 同じ哺乳類でこれだけ寄り添っているのはいないです。
4歳で吃音障害が発覚しました。 「あいうえお」が言えなくて、お母さんと言えない子供でした。 言葉への恐怖が凄かったです。 愛犬がいて待っていてくれて一番の友達でした。 犬が救ってくれて、これが原点です。 名前を呼んで、その繰り返しでした。 愛犬が居れば生きてゆけました。 10代で吃音を克服できたきっかけは、ラジオのFMから聞こえていたアメリカの音楽でした。 英語の言葉をメロディーに合わせて歌うとつっかえないんです。 祖父がでかい声で歌えと言って、そのうちにステレオを買って来てくれて、アメリカの音楽に合わせて声を出しました。 英語の単語も覚えて行きました。 犬とブルースという音楽が今日まで生きさせてくれました。
父親は日本橋で建築業をやっていました。 倒産して、家と土地全部取られてしまいました。 夜逃げしました。(12歳) 愛犬が居ましたが駄目だと言われてしまいました。 いい人にもらえるからと言われましたが、当時は厳しい時代だったので、後から思うと捨てられたんだろうと思いました。 そのことが犬の教室に繋がるし、後歌が間違いなく救ってくれました。 16,7歳から歳を誤魔化してバイトで夜歌うようになりました。 お金を稼いで、食べるもの、学費を稼いで高校を出ました。 その後10年ぐらいはプロとして歌っていました。 睡眠不足、余り食べないとか重なって栄養失調になり、結核になり、2年半隔離入院となりました。 たくさん食べ、薬を飲んで直していきました。 親も亡くなりました。 医者からは歌う事は辞めた方がいいと言われましたが、しかし歌うという事はあきらめたくなかった。 どうしたらいいか、取り合えずアメリカに行こうと思いました。(1970年代後半)
肌の色の差の経験をしました。(黒人社会を経験) 或る黒人の女性から歌に関することをいろいろ諭されました。 自分たちは苦しみとかいろいろ戦ってきた、貴方もこっち側の人間だからこの国で悔しさ、悲しさ、苦しさを一杯経験するはずだから、それを歌に託せと言われました。 うまく歌おうと思わないで魂を込めろと言われました。 徐々に歌えるのかなあと思ってきました。 最初に歌って5ドルで投げ渡されました。 取れなくて落としてしまいましたが、普通なら怒りますが、拾って「ありがとう」と言う言葉が言えたんです。 私の歌がドルになったと思いました。 トオル・オオキ・ブルースバンドを結成することになります。 全員黒人のメンバーでした。 ニューヨークへ行けば殺されるかもしれないと言われましたが、ニューヨークに行きました。 ミスターイエローブルースと言われました。 最初違和感がありましたが、慣れて行きました。
*「エブリナイトウーマン」 作曲:大木トオル(結核病棟で作曲)
1979年日本に戻って来て日本公演を行いました。 でも早くアメリカに帰るという気持ちの方が強かったです。 厳しいところにいないと駄目になってしまうのでは、という思いがありました。 アメリカでは社会に貢献できるライフワークを求めていて、自分ではライフワークを何も持っていませんでした。 セラピードッグの施設を見学に行きました。 セラピードッグに衝撃を受けました。 恩返しという意味もあり、動物愛護の世界に入ることを決めました。 貴方の国では犬、猫をガスで殺している(当時50~100万頭)、と言われました。 経済大国の日本が今もこんなことをしている。 それを無くさない限り私たちは認めないと言われました。 何故あなたは戦わないのだと言われました。 日本公演の度に保健所に行き殺処分所を見たいと思いましたが、見せてくれませんでした。 悲鳴だけが聞こえてきました。 自分を救ってくれた犬が捨てられてこのようにして殺されることを思うと、戦うという気持ちが出てきました。 直ぐに30歳ちょっとで活動を開始しました。
ペット産業とかいろいろあり年間1兆5000億円以上の売り上げがあって、衝動買いがあったりして、捨てる、いじめる、虐待、そして最後は国が殺すという事がまかり通ってきたわけけです。 これを変えるということは至難の業です。 千葉県の結核病棟のすぐ近くにチロリちゃんが捨てられていました。 そして殺処分という事に深く入って行きました。 一緒に育てて、これがきっかけで日本のセラピードッグの第一号になるわけです。 全国から引き取るようになりました。 雑種という事で、セラピードッグに成れるか、という不安もありました。 この子たちが人を助けるというセラピードッグになってくれました。 政治の世界でも法案が出来てきて、変わってきました。 殺処分場から何百頭救ってきましたが、救えなかった方が何倍も多いんです。 悲願は日本からの殺処分ゼロ、日本という国が早く世界の動物愛護国の仲間入りを願っています。