阿部雅司(リレハンメルオリンピック金メダリストリスト) ・【2020に託すもの】オリンピック金メダリストが選んだ新たな道
リレハンメルオリンピック、ノルディックスキー複合団体の金メダリストで現在は北海道名寄市の特別参与、スポーツ振興アドバイザーをなさっている阿部さんに伺います。
次に北京に向けてという感じになっています。
1965年8月13日 生れ 北海道留萌郡小平町出身。
東海大学付属第四高等学校卒業後、東京美装興業に入社、その後スキーノルディック複合の選手。
1988年カルガリーオリンピック、1992年アルベールビルオリンピック、1994年リレハンメルオリンピック、に出場して、リレハンメルでは複合団体で金メダルを獲得。
世界選手権でも金メダル2個獲得。
引退後は19年間日本代表のコーチを務める。
現在は北海道名寄市の特別参与に就任し、冬季スポーツの振興を行っている。
ジュニア選手の育成、地方の指導者のかたがたのスキルアップの為の講習会、小学校、中学校の体育の授業での、運動改善プログラムなどでスポーツを好きになってもらいたいと活動したり、ノルディックウオークの普及などを行っています。
名寄市は物凄く寒くて、雪質日本一という事を掲げて、雪に関しては自慢になっています。
スキーが盛んな町です。
冬になると体力が落ちると言う事で、モデルの学校で指導をして、効果があることが判り、広めるような動きになってます。
冬に特化したスポーツセンターが無いので名寄市で展開しようと、11月にフィンランドにシステムを学んだりしに行きました。
その前にも一人で半年間いった時もありました。
フィンランドは日本人に似たような気質の処があります。
スキートンネル 1.2kmのトンネルになっていてマイナス4,5度になっていて、いつでもクロスカントリースキーができる施設です。
ドイツなどにも大きなスキートンネルがありますが、アジア圏には無いので名寄市にも欲しいと思っています。
小学校1年生の時からリフトに乗ってスキーをしていました。
小学校3年生の時にジャンプとかを指導する熱心な先生が来まして、ジャンプをやって見ないかと声をかけてくれました。
先生が役場に掛け合って30m級のジャンプ台が出来ました。
クロスカントリースキーも熱心に指導して、全国大会で上位に入る選手が何人も出ましたが、先生がいなくなってからはそういった選手もいなくなりました。
複合はその先生から勧められてやるようになりました。
先生との出会いが僕の中では大きかったです。
高校3年生の時にはスキーの成績が良くなくて、就職先も無かったが東京美装興業に入社する事が出来ました。
早坂 毅代司(はやさか きよし)さんが引退したばかりで、全日本複合チームのコーチに就任して、複合の強化が始まりました。
3,4年するとワールドカップでも上位に行けるようになりました。
1988年カルガリーオリンピック 個人31位、団体9位。
1992年アルベールビルオリンピック 4年間で大きく状況が変わり結果が出始める。個人30位
団体のメンバーからは外れてしまう。(自分はキャプテンだったのでショックだった)
ふてくされたい気持を封印していたら、周りも理解してくれて頑張ってくれて金メダル
を取ってくれた。 辞めたいと一度は決心していた。
妻が妊娠している事が判って、前向きな気持ちになり、続けることにしました。
1994年リレハンメルオリンピック 子供の写真を貼り付けて試合に臨みました。
個人10位、又補欠かなとよぎったが阿部と呼ばれて安堵。
荻原さん、河野さんは調子が良くて自分としてはプレッシャーがかかったが、開き直っ
った気持ちになり、K点をそれまで越えていなかったが、越える事が出来ました。
ノルウエーとは約5分の差を付ける事が出来ました。
最初1分近く詰められたが、自分にはまだ3分或ると思って、いい滑りができて1分逆
に引き離す事が出来て、荻原さんにタッチして団体金メダルを獲得することができまし
た。
コーチとしては、ルールも変わって大変だったが、渡部選手がようやくクロスカントリーでも負けない選手になって、メダルを取った時には物凄く嬉しかったです。
コーチを辞めた時には会社への恩返しということも考えたが、名寄市から呼びかけがあり妻の後押しもあり行くことに決めました。
講演活動も多くなり子供達に話す機会が多くなりました。
スペシャルオリンピック 知的障害の方がスポーツを通して世の中の人と交わえるようにしたり、スポーツで笑顔を作ると言う事がコンセプトでやっていますが、スポーツって傷害がある人もない人も笑顔になれる活動だと思っています。