辻惟雄(美術史家) ・日本美術の再発見
名古屋市出身、86歳、長年日本の美術史の研究に携わり、現在の伊藤若冲を初めとする、江戸絵画ブームの礎を築いた方です。
1970年に発表した著書「奇想の系譜」がその第一歩でした。
取り上げたのは浮世絵の祖と言われた岩佐又兵衛、狩野山雪、歌川国芳、他の作品と伝記。
江戸画家の中に西洋のダリやピカソンにも通じるモダンやアバンギャルドを発見しました。
一方で正統的な狩野派研究も手掛けています。
その後も「遊び」、「飾り」、「アニミズム」とキーワードを見付け、日本美術の特質を論じました。
その功績に対して2016年に文化功労章、去年秋の叙勲で瑞宝重光章受章されています。
父は医者で私達は3人兄弟した。
兄が継ぐ予定でしたが、継ぐのを断って上京して早稲田大学に行って、富士フィルムの社員になってしまいました。
私が医者になることを期待されて、その気になっていたが数学が苦手でした。
中学で美術部に入っていてスケッチを先生から褒められたりしました。
高校2年の時に友人から日比谷高校の編入試験を受けたいので一緒にどうかとの話があり、父に相談したら許してくれて、編入試験に合格して日比谷高校に行くことになり、1年後に東大に合格して私は理科二類、医者の卵としてスタートしました。
入学した年の夏休み明けに発疹チフスにかかってしまって、高熱のせいか精神錯乱状態になってしまって、その後熱が冷めて郷里に帰ったが、又症状が再発して名古屋大学精神科に入ってインシュリンショック療法という手荒な治療を受けてやっと治りました。
又上京しましたがショック療法のせいか、数学、理科が頭から完全に消えてしまっていて留年になり、もう一年留年して4年かかって教養学部を終えました。
医者になる為にはもう一回医学部に試験を受けなくてはならないので、父親は何処でも好きなところへ行けと言われました。
文学部に美術史学科があることを知り、そこに進学をして日本美術史を専攻することになりました。
山根先生との出会いがあり、講義を受けている中で岩佐又兵衛について話された事があり、まともな絵と生々しい絵巻物があって、それが岩佐又兵衛が書いたものかどうかの議論が第二次世界大戦の前にあって、中断して今日に至ったという話い興味を持って、それに関する卒業論文を書きました。
当時は就職難で大学院に進学しましたが、日本美術史はついに先生一人に生徒は私が一人ということになってしまいました。
修士論文では岩佐又兵衛をやってみないかという事で、熱海の美術館(今のMOA)に行って、山中常盤、浄瑠璃絵巻、堀江物語絵巻、3つ併せると400m位になる膨大なものですが、それを35mmカメラで3日がかりで全部撮ってきました。
それを基に修士論文を書きました。
全部岩佐又兵衛のものと考えていたが、米澤 嘉圃(よねざわ よしほ)先生にその写真を見せたら、これは線がみんな全然違う、これは一人が書いたものとは思えないといわれてしまい、根底がくつがえられてしまいました。
論文はもう一年かかるねと言われて、これ以上留年は出来ないと思って、線の違いを見極めようと頑張って或る程度は判ったが、一人の画家の書いた年代の違いという事で強引に押し切るような論文を書いたのですが、なんとか合格になりました。
線の柔らかさ、硬さなど、それから線の質の違いを見分ける目を養おうと思いました。
その後美術史学会で報告した時には考えを変えて、岩佐又兵衛という画家の監督する工房があって、その工房の弟子何人かが共同して製作したものだという処に行ったわけです。
中身のあいまいな発表になりました。
その後文化財研究所に就職しました。
矢代幸雄さんが所長になって、東洋、中国、日本、韓国の美術作品のデータをすべて集めると言う壮大な計画をたてましたが、壮大過ぎて頓挫した状態だった。
渡辺一(わたなべはじめ)さんという研究所員がいまして、室町時代の水墨画の画家の資料を集めるという事に目をつけました。
ビルマで戦死してしまったが、狩野元信の資料がずいぶんあったが、出版目前で中断していましたが、それをなんとか完成させたいと言うのが私の研究所での中心の仕事でした。
33,4歳の時に若冲に興味をもったのは、とり年で干支にちなんで鳥を集めた展覧会がありました。
『仙人掌群鶏図(さぼてんぐんけいず)』若冲の襖絵が展示されたが、見逃してしまいましたが、杉全直という画家シュルレアリスムをやっている現代画家、その人がどう思っているかが印象的でした。
シュルレアリスムの画家を惹きつける要素が若冲にあると言う事でした。
ジョー・プライスさんは日本美術を扱っている画商の処にフランク・ロイドに連れられていって、凄い絵があると言う事でそれに魅せられて買ったんですが、後になって伊藤若冲の作品だということがわかって、それ以来若冲の熱狂的なファンになって、日本に来て若冲の絵をあさるようになりました。
「動植綵絵」は、若冲が相国寺に寄進したものであるが、相国寺で廃仏毀釈の折に財政的にピンチになって、明治天皇から御下賜という形で1万円が贈られて、返礼として若冲の「動植綵絵」が宮内庁に献納された。
1970年 著書「奇想の系譜」は書評では好評だったが売れ行きはパッとしなかった。
2000年になって「奇想の系譜」で取り上げた伊藤若冲の展覧会があり、当初はがらがらだったが、後半になって記録的な入場者になりました。
インターネットのやり取りなどで広められた現象だったと解釈されましたが、それが現在の若冲ブームの発端でした。
「奇想の系譜」の文庫本を出したいとの話があり、それが大変売れました。
その後東北大学で美術史を教えていました。
日本の文化の特色として「遊び」というものがあると説いていて、「遊び」というものをキーワードにして、日本美術を見て行くと実に面白い、鳥獣戯画等は典型的です。
「飾り」という言葉に移りますが、それは東北大から東大に来て50代のことですが、NHKのある展覧会で、服部幸雄さんという民俗学者がいて、日本文化には飾る文化と飾らない文化があって、それがお互いに絡み合いながら発展してきたのが、日本文化だという事を書いていました。
装飾的な日本の美術品を「飾り」という名前で、くくって集めればいいという事で手当たり次第に集めたら、実に面白い展覧会になって超満員になりました。
それから「飾り」という展覧会を日本だけではなくて、アメリカ、イギリスでもやりました。
「飾り」というのは美術だけではなくて、日本の生活文化というものを象徴するような言葉として、非常に重要な言葉と思います。
その後、国際日本文化研究センターでは当時梅原猛先生が所長をやってっていましたが、そこに行く事になりました。。
「アニミズム」という言葉、日本の神道がアニミズムそのものであると、アニミズムというものは宗教の一番素朴な発生したばかりの原始的な宗教で、宗教は段々アニミズムから脱して、進歩していったと、多神教から一神教に行ったと、それがキリスト教であり、というふうに、アニミズムという概念を見つけながら、それをかなり原始的な宗教というふうにして考えて行ったんですね。
アニミズムを簡単に説明するならば、人間だけで無く、動物だけで無く、生命を持たないと思われている石、水、そういう様なものにさえ霊が宿っているんだと言う、そういう発想で非常に興味を持ちました。
日本の美術の中にアニミズムというものが、どういう具合にあるかという事を調べたらあるわあるわ、ほとんど例外なしにアニミズムという様相を持っているんです。
特に伊藤若冲などはアニミズムの要素がふんだんにあります。
曽我蕭白、歌川国芳もそうだと言うことになってくるわけです。
著書「奇想の系譜」の中の画家たちのなかには、「遊び」、「飾り」、「アニミズム」
日本の美術を特徴づける要素が、一杯詰まってると言うことになってきたわけです。
狩野元信、日本の美術の中には狩野元信みたいに日本の美術の型を作る人がいて、そういう人も無視できないと思っています。
両方の関係性をもうちょっと見極める必要があると思います。
美術品を裸のものとガラスを通してみるのとでは当然違うし、裸のものでも光線が人工的なものか、自然の光線かによっても違いますし、光線の角度なども関係してくるし、若い頃の眼と歳をとった眼でも違う。
感じ取るデリケートな作品の表情を見分ける力は、昔よりいまの自分の方が付いてきているんじゃないかと思います。(長く続かないが)
昔気付かなかった良さが、フッと判ったりします。
美術史家、過去に描かれた絵について、観る人の眼によって認められて初めてそれが作品になるんだと、それをするのが重要な美術史家の重要な仕事ではないかと思うようになってきました。