森田順平(俳優・声優) ・【時代を創った声】
64歳、22歳の時にNHKの大河ドラマ「花神」で俳優としてデビューされた森田さんは、、[3年B組金八先生」でのこわもての数学教師役や、アニメ「クレヨンしんちゃん」の園長先生役等で知られています。
40歳近くになって声の仕事を始めるようになったと言う、森田さんにうかがいました。
1979年から2011年まで32年間に渡って「金八先生」が続きました。
デビューしてから3年目の時からでした。(25歳)
こわもての数学教師、乾先生役でした。
生徒にモテモテの人気のある役かなと思って、笑顔で芝居を始めたら、「乾先生は一切笑わない先生という事でお願いします」と言われて、愕然としました。
段々嫌われ度が増してゆき、ジョギングをしていた時に、中学生から石を投げられたりしたのには困りました。
福岡県小倉市出身。
役者を目指そうと思ったのは、母親と恩師の方々の影響と思います。
小学校のころから朗読が大好きでした。
小学校4年の時に、大学の文化祭で朗読をするという経験をしました。
そこでぽつんと何かが芽生えたのかもしれません。
中学では声変わりをして、美術部に入って、文化祭で演劇コンクールがあって、美術関係の事をやっていました。
お父さん役が急遽僕にまわってきて、それが大好評で、2年、3年と僕が主役になり優勝しました。
高校では演劇同好会を演劇部に昇格させて、高校演劇連盟にはいって大会に出るようにしていきました。
ライブ感がたまらなかったです。
当時不条理劇がはやっていて、訳のわからない芝居をやっていました。
大学3年までに卒業必修単位を取ってしまって、後は卒論、1個必修科目がのこっていて、3年で文学座が受かってしまって、それがうけられなくて、文学座に行きたいので何とかならないか、教授に相談したら、前期と後期にレポートを出せばOKという事になりました。
文学座に入ったら、目から鱗のようなことが毎日ありました。
今まで自分がやりたいようにやっていて、心をちゃんと人に伝えないといけない、というような基本からでした。
褒めてもらいたかったが、褒めてもらう事は一度も無かった。
好きでやっているので、辞めたいと思ったことはないです。
1977年NHK大河ドラマ「花神」の沖田総司 役でデビュー。
新人オーディションがあって、それに参加したら大河ドラマの役が来ました。
最初は何にも判らなかったので、かつらを付けてもらったがきつかった、刀を差して1時間立って待っていて、現場に行って「顔色が青いよ」と言われたとたんに、気を失ってしまいました。(緊張、長く立っていたいた、かつらによるこめかみの痛さ)
「花神」の次のドラマで小山内 美江子(おさない みえこ)さんに気に入っていただいて、
「 マー姉ちゃん」「3年B組金八先生」へと繋がって行きました。
1999年アニメ「キョロちゃん」で声優デビュー。
本当はもっと前に海外の吹き替えに出ていました。
海外ドラマが楽しくて面白くてやりたいなあと思っていました。
あるきっかけで吹き替えの仕事をするようになって、面白くてのめり込んでいました。
ラジオドラマが実は一番好きでした。
声だけで表現することの楽しさがありました。
身体を使って演技していたものが声だけになるが、実は声も身体の一部と気付きました。
それでもっと面白くなりました。
アニメは描かれた絵でしかないので、それに命を吹き込むには大きく作り込んでいかなくてはいけないが、吹き替えは作り上げられた人物、声、演技があるわけで、それを無茶くちゃにはできないので、それに或る程度乗っかって、自分の芝居をしなくてはいけない。
アニメは大げさにやってもかまわないが、実写では大げさにやると浮いてしまう。
吹き替えをやる時の仕事の極意は、人の表情を瞬時に読み取る能力、それに合わせて変えて行く。
その役の身体になる。(病気の状態、寝ている状態などを、立っていても声でそういう状態を作り出すようにする)
声優を目指す若い人に対しては「口先で芝居をするな」、これをまず一番言いたい。
僕が文学座に入ってやって行けるかどうか不安で、教授に聞いた時に、一緒に飲みながら「おのずから道は開ける」と一言教授から言われました。
だから僕も同じ様なことしか言えない。
強い意志を持っていれば絶対成れると思うが。
「努力は必ず報われる、もし報われない努力があるとすれば、それはまだ努力とはいえない。」 王さんの言葉ですがこの言葉が好きです。
小学生に対して、朗読をしています、4年生「蜘蛛の糸」(芥川龍之介)をやりました。
5年生が「トロッコ」(芥川龍之介) 6年生が「注文の多い料理店」(宮沢賢治)
子供達の眼の色が変わってくるんです。
これは楽しいです、ライブと一緒です。