2019年1月24日木曜日

池辺晋一郎(作曲家)           ・いつも音楽があった

池辺晋一郎(作曲家)           ・いつも音楽があった
去年文化功労者に選ばれた池辺さんは、茨城県出身75歳。
小さいころから音楽に親しみ東京芸術大学音楽学部作曲科在学中に、日本音楽コンクール作曲部門で第一位を受賞、交響曲や管弦楽曲、合唱曲、オペラ、など数々の作品に加え、映画、演劇、TVドラマの音楽までジャンルを越えて幅広く手掛けて来ました。
後進の指導や、音楽の普及にも熱心に取り組み、東京音楽大学などで長く指導に当たり、又マスコミでも活躍、NHK教育TVのN響アワーの司会を長く務め、エッセー等文筆活動も盛んです。
最近は各地のホールの音楽監督なども務め、去年は日本の音楽文化の発展に大きく貢献したとして、JXTG音楽賞洋楽部門(本賞)も受賞されました。
社会とのかかわりの中で、曲と文章で音楽の魅力を発信する池辺さんに伺いました。

平成30年文化功労賞も頂きました。
昨年は喜びが大挙してやってきました。
小さいころは体が弱くて、小学校に一年遅れて入りました。
外で遊べなくて家の中で、母親のピアノででたらめを弾いていました。
でたらめが作曲に繋がっていきました。
やたら本がある家で、本もやたら読みましたし、ラジオも聞きました。
どっかで蓄積されたのだと思います。
ラジオは見えない魅力がある、想像力をかきたてる。
見えるのよりも、もっと豊かなのかもしれないという気がします。

うちでは大学生を下宿させていて、その友人たちがたむろしていて、ピアノが弾けて音楽が好きな人が一人いました。
弾くとその人が楽譜にしてくれました。
北原白秋、藤村とか詩集一冊を全部歌にしてしまうとかやっていました。
中学、高校ではピアノ以外にクラリネット、など吹奏楽部の楽器を全部いじったりしていました。
新宿高校に行きましたが、僕が書いて溜まっていた楽譜を、祖父か祖母が専門家に見せてしまったら、呼びつけられてちゃんと勉強して東京芸大を受けろと言われました。
東京芸術大学音楽学部作曲科に入学しました。

それぞれ色んな楽器を凄く上手くこなす友人たちに出会えて、自分が書いたものを直ぐやって貰える、それは素晴らしかった、彼等とはいまでも付き合っています。
その中にピアノを弾く高橋アキと言う人がいて、今でも僕の曲を弾いてくれています。
フルートも小泉浩 という同級生がいて、去年書いたフルートの曲をいまだにやってくれています。
在学中に、日本音楽コンクール作曲部門で第一位を受賞することができました。
一回りちょっと上の世代にはきらぼしのごとく一杯凄い人がいました。
団伊玖磨、芥川也寸志、黛敏郎,山本直純、岩城宏之、小澤征爾さん等々、それぞれいろんな分野で活躍するわけです。
僕はその世代の最後にちょっとひっかかっていて、その後は分化するんですね。
本を読むのが好きだったので、文章を書くのは好きです。
中学、高校時代から映画、演劇を観るのが好きでした。
東京芸術大学の部活は演劇クラブでした。

映画では黒澤明さん、今村正平さんなどと仕事をすることができました。
黒澤監督は風の音を僕に選ばさせた事がありましたが、「作曲家ではなくて君は音楽監督なんだぞ、音に関することは責任持て」と言われました。
今村監督からも同じことを言われました。
台本を読んでイメージを掴まないと出遅れるので、そういったことが楽しかったです。
TVドラマ、僕は大河ドラマを5つやりましたが、毎週打ち合わせをして何処にどんな音楽を入れるか決めて、時間を計ってその通りに音楽を書いて、その通りに録音してその繰り返しでした。
年間でどの大河ドラマも650曲ぐらい書きます。
飛鳥の酒舟石があり、宗教の儀式の道具のひとつだったという説があり、それを主張する考古学者がいてその考古学者が出てくるシーンで、ゾロアスター教の儀式のシーンが幻で出て来る、その音楽を作ってくれと言われて、3日間しか無くて勝手に何とかやりました。

交響曲は10曲で11曲目を構想中、合唱曲は何百曲とかになります。
楽器の特性上、これは難しい、無理という事があります。
その楽器でしかできないという事もあります。
自分が持っている知識を一曲に全部入れたくなるが、それでは欲張り過ぎて駄目、ふたつ以上を並行してやると意識が分散するし返ってうまくいく。
スランプに落ちいった時にやっと気が付いた事がある、一つの曲では一つのことを言えばいいんだと言う事で、それに気が付いたあと曲を作るのが書きやすくなったし、楽しくなった。
30,40代が一番忙しかった、それぞれ演劇用とか専用の机を用意した。
作曲は頭にあるものを出来るだけ早く写し取らないと消えてしまうので、スピードとの勝負です。
合唱は心の中で手をつなぐというか、そういう不思議な現象が起き大きな力になります。

*阪神大震災鎮魂組曲 題名「1995年1月17日」詩:森村誠一 第7章 「私の息子」
森村さんとは言論弾圧に対する声を上げようと言う事で、やろうとしていたら阪神大震災が起きて、切り替えて資料などをたくさん集めて、曲が出来上がり初演したのが翌年の4月でした。
その後も3・11も起きましたし、中越地震もありました。
音楽で主張しているつもりですが、抽象で具象化できえなかったものを文章にして充足しているのかもしれません。
自分でやっている仕事がどっかで社会と接点を持つ、何かを誰かに伝えて行くという仕事の一環であるという事を、どっかで実感していかないとならないという気がします。
学生と付き合う事は楽しいです、学生を指導すると言う事は、常に自分を試されていることだと思います。
それには理念を持っていないとだめだと思います。
画家の池田龍雄さんが「たまには絵筆を捨てようよ、社会を見つめて社会に対して何を言わなければいけないか考えよう」という事をいっていてぼくもまったく同感です。
何を言わなきゃならないかという事は、常に僕はどこかで問い続けなければならないと思っています。