2019年1月30日水曜日

野見山暁治(画家)            ・ぼくは絵描き(1)

野見山暁治(画家)            ・ぼくは絵描き(1)
大正9年福岡県生まれ、98歳。
東京美術学校の油絵科を卒業して、昭和18年旧満州で軍務につきますが、病を患って九州の福岡で終戦を迎えます。
昭和27年私費留学生としてフランスに渡り、12年間フランスで過ごします。
帰国後は母校の東京芸大で教授も務めました。
平成26年93歳で文化勲章を受賞されています。
98歳となった今も毎日絵を描き続けると言う野見山さん、子供のころから絵を描くのが好きで、ただひたすらに真っ直ぐ絵に向かって来た絵描きです。
そんな野見山さんが絵が描けなくなった時期がありました。
敗戦後と、12年間フランスで過ごし、帰国した後だったといいます。
困難な時期を乗り越え、描き続けてきた野見山さんの画家としての人生を伺います。

思いはいつでも今という感じでいます。
足がかなり弱ってきました。
小さなものでも立って描いてきました。
美術学校では5年間を通じて午前中裸の絵を描きます。
モデルをみんな段々立って書くようになって、僕は遅れて行くものだから、その後ろから描くものだから5年間やってきて立って描くようになりました。
起きている時は動いているので、それがとってもいいのかなあと思います。
性格はどっちかというと臆病で慎重です。
勇気があったらもっといい絵が描けたなあと思っています。

1920年福岡県生れ、父親は炭鉱の経営者でした。
父親は三男坊で大きな呉服屋さんに丁稚奉公に行きました。
石炭が発見されて、こぞって地面を掘っていまして、炭鉱夫の住宅がありましたが、あらくれ野人が多くて一般の人は近寄らなかったが、父親はそこで質屋を開きました。
金の貸し借りで日本刀を持ってきて交渉に来た人もいました。
そういった光景を見てきたので、人との交渉を持つような仕事は避けて通ろうと思いました、絵描きはいいと思いました。
絵は小さいころから好きでしたが、絵描きになろうと言う事はなかったです。
小学校時代の今中利美?先生、中学校時代鳥飼辰巳?先生、戦後交流をもった今西中通先生、この3人の先生に大きな影響を受けました。
小学校時代は図画の時間だけが楽しみでした。
絵のお手本を見て普通それを見て描いていましたが、今中先生は校庭へ連れて行って木を好きなように描きなさいとかいってくれて、絵を描く喜びを始めて知りました。
好きなように描きなさいと言われて、初めて劣等感を無くしました。
中学の時の鳥飼先生は教え方で今迄で最高の先生だと思いました。
お寺の家の出の先生でした。
ものと空の関係がたった一つの線が或るだけで生きるんだとか、点が一つないための空間の広さだとか、手品のような感じで教えてもらいました。
絵はつくるもんだと、作るにはどうしたらいいか、つくる仕掛けは相手から引っ張り出さなければならないんだと言う事、対象を観ると言う事はそこらを極めて行くんだと言う事だと思いました。

18歳で東京美術学校(東京芸術大学)に入学しました。
鳥飼先生の時のようなわくわく感が無くなってしまいました。
石膏を見て描く訳です。(光と陰で立体感を出す、西洋画)
鳥飼先生から教わった東洋画の描き方とまるっきり違う訳です。
余り学校に行く気がしなくなってしまいました。
戦争が始まって、兵隊にとられるので学校に行っていた方がいいと妹から諭されました。
戦争に関して学生同士で議論しあって賛成派、反対派でよく敵対しました。
日本の中がどんどん軍隊化していきました。
頭髪、衣服など統制されて、色々疑心暗鬼になって行きました。
22歳で繰り上げ卒業して、1943年にソ連との国境の近くの旧満州に行きました。
11月に日本を出ましたが、着いた所は何にもない灰色の氷の世界でした。
よく見ると銃口がこちらを向いていて一発触発の状況で、いざとなれば直ぐ撃てる体制になっていました。

天皇陛下皇后陛下と食事をした時に、「貴方は風景画家だと聞いたけど、戦地の風景はどうでしたか」と言われました。
「風景を絵描きの眼で見るのと違って、まるっきり違う、普通の風景に見えませんでした」と言いました。
大きな棺桶の底辺を歩いてる実感でした。
天皇陛下からは根掘り葉掘り聞かれました。
風景というものは自分で作るものだと、自分の中で創造しているなと思うようになりました。

行動を規制されていて逼迫した日々の中の行動の一つ一つが批判されている中で、今日から自由だよと言われたら、放心状態というものはどうしようもなかった。
あれだけ規制されていて、解放感というものは非常に空しい。
絵を描いていて、黒い線を描いていてあるところに来ると緊張感が出るのではないかと思うが、何の反応も無いわけです。
どう描いて見てもそれがなんだと言う、絵になっていない。
一生絵が描けないのではないかと思いました。
少しずつ人間の生活に世の中が戻ってきて、僕も馴染んできました。
パリから帰って来た時にも、そのような気分はありました。