2019年1月26日土曜日

渡辺一史(ノンフィクションライター)   ・夜更けにバナナを探して

渡辺一史(ノンフィクションライター)   ・夜更けにバナナを探して
今から16年前、2003年に渡辺さんが3年をかけてかけて書いた「こんな夜更けにバナナかよ」が先月映画化されて話題になっています。
この本は北海道に住む、全身の筋肉が衰えて行く難病筋ジストロフィーの患者と、ボランティアをテーマにしたノンフィクションです。
当時大宅荘一ノンフィクション賞と講談社ノンフィクション賞をダブル受賞をしました。
渡辺さんは名古屋市の出身です。
父の転勤で大阪の中学、高校を卒業し、獣医をめざして北海道大学に入学しましたが、夢叶わず中退してフリーライターになりました。
2冊目は「北の無人駅から」、3冊目は「何故人と人は支え合うのか」を書いています。

障害者が我ままで支援するボランティアの人達に要求する障害者の方で、深夜にバナナが食べたくなったからバナナを食べさせろ、ということに対して頭ではボランティアで食べさせてあげるために来ているが内心はむっとする訳で、「こんな夜更けにバナナかよ」とつぶやいたボランティアの話をタイトルにしました。
昨年12月に封切りされましたが、お陰さまで好評です。
2003年に本を出版。
小学校の時に筋ジストロフィーを告げられて、18歳で車椅子生活、32歳の時心臓の筋力低下で拡張型心筋症と診断され、ほとんど寝たきりとなる。
自立生活をしたいと言う事でボランティアを募集して24時間体制で生活をする。
心臓が拍動するのも筋肉なので、その機能自体も衰えて行って、心臓で亡くなるかたちが多い。
鹿野さんは我ままだと言われるがバイタリティーのある方で、とにかくどんない障害が重くても地域で生活したいと言う事で、介護をボランティアで募集してやってもらわざるを得ない状況でした。
命がけで障害者施設を飛び出して、20代のころから地域で普通に生活をしたいという事で、亡くなるまで続ける方だった。
障害のあるのは誰のせいでもないという事で、生き方の選択肢は一生親元で過ごすか、病院とかで隔離されて一生を終えてしまうのは違うのではないか、障害があっても自分の人生を自分で生きたいという主張を貫いたんですね。

人工呼吸器が発達して筋ジストロフィーの方の寿命が伸びて、いまは40代過ぎた方もたくさんいらっしゃいます。
しかし、喉に穴をあけて管を付けるので痰が溜まるので、それを吸引器で吸い出さないと窒息してしまうので、それを含めたボランティア介助をしていたということです。
鹿野さんは家族が面倒を見なくてはいけないという、日本の家族介護への反抗でもあった訳です。
途中で何かあっても命も自分の責任でという事で、痰の吸引も素人のボランティアの人にやってもらうことにしたんです。
取材で鹿野さんにあった時に、本当に自己主張の強い方でボランティアの方たちに、あれしろこれしろと容赦なく付きつける人で、好き嫌いが多く、人の噂話が大好きで、俗っぽい側面がありました。
気に入らないと周囲に八つ当たりする。
一般的に障害者を描く時に、困難に負けず健気に一生懸命生きている人、聖人君子みたいな障害者像を描かれがちですが、鹿野さんと向かい合っている限り、何処が聖人君子かという感じの方です。
支えるボランティアの方も普通の人で遅刻して鹿野さんに怒られたり、介助をなかなか覚えられないとか、ごく普通の若者たちです。
清く正しく美しい障害者と善良な献身的なボランティアの若者たち、という物語では全くないものです。
イメージしていた福祉介護の世界とは全然違っていて、正確に描きたいと思って書いたのがこの本です。

大学中退してフリーライターをやっていて10年ぐらいのキャリアはありました。
福祉介護の世界は全然やったことはありませんでした。
取材に出掛けて行った処は美談感動ドラマではなくて、興味が惹かれました。
自問自答を深めて行って、これは鹿野さんにとって自分の人生を主体的に生きると言う上で、煙草を吸いたいとかエッチなビデオを観たいとか、当然健常者がやっている普通の生活がしたという思いを自分では出来ないので人に頼む。
我ままなんだろうかと段々考え始める。
衝突はするが最終的にはお互いを認め合って、深い信頼関係に繋がっていったりする。
うわべだけでいうこと聞いてくれるボランティアよりも、反抗して来るようなボランティアの方がいざとなった時に頼りになったりする。
衝突することによってお互いの立場を知って行く。
葛藤を重ねて培われてゆく信頼関係が見えてきた時に、自分と他者の信頼関係はこういう事なんだと言う、深い側面が見えてきたというのが見えてきました。

介助ノート、引き継ぎノートが95冊になりました。
ボランティアの人も書きましたが、鹿野さんも口述筆記してもらって両者の色んな思いも綴っていきました。
ノートが本を書く上でいろいろ参考になりました。
筋ジストロフィーも進行して行くと寝返りが出来ないので、呼んだりするが眠れないとか、介護者もちゃんと夜寝て朝起きる生活にしてくださいとか、生々しいやり取りが全部ノートに現れていました。
ボランティアも交替があるので、新人ボランティアには鹿野さんが指導していました。
私も指導してもらってボランティアに参加しましたが、本質を理解するにはそういう状況に入りこまないといけないのではないかと思いました。
2002年8月に鹿野さんは亡くなりました。(未完の本の部分的にはお見せしました。)
本が出来上がる前に亡くなってしまいました。

鹿野さんとは2年4カ月の付き合いでしたが、亡くなった以降の15年は鹿野さんから学んだ事がものを書いたり、大学で話す機会を頂いたり、根底はすべて鹿野さんから教わった事がベースにあります。
関わったボランティアの人は500から1000人ぐらいで、今の自分があるのは鹿野さんのお陰だと思っているボタンティアの人は、沢山いて多くの人に影響を与えたそういう生き方だったと思います。
2冊目「北の無人駅から」 これは8年半かかっています。
779ページになります。
北海道の無人駅を調べて、取りつかれたようにやってきました。
駅の周辺の地域が抱えている矛盾、社会問題、農業、漁業、自然保護、環境問題、観光等どこに問題があるのか、深く突っ込んで行くうちに東京以外の地方が抱えている問題を書いたような本になりました。
サントリー学芸賞を受賞。第12回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞受賞

獣医さんになりたいと思っていました。
北海道大学理Ⅱ系入学に獣医の道は進めませんでした。
在学中、自ら創刊したキャンパス雑誌の編集にのめり込み、1991年9月北海道大学文学部行動科学科中退する事になりました。
3冊目は「何故人と人は支え合うのか」
自分が納得できて本になるまでには、時間がかかってしまって困った性格だと思います。
それが私の障害なんじゃないかというふうに「何故人と人は支え合うのか」の中には書いていて、こだわり過ぎるのが障害だと思います。
もう一回地方の問題に取り組んでみたいという思いと、30年以上住んでいる札幌の問題も取り組んでみたいと思います。