2019年1月20日日曜日

岩佐大輝(農業生産法人代表)       ・【美味しい仕事人】ブランドイチゴで復興を支える

岩佐大輝(農業生産法人代表)  ・【美味しい仕事人】ブランドイチゴで復興を支える
おいしいものがあふれている日本の食、その美味しい物の舞台裏で食を支えている人たちがいます。
東日本大震災で津波被害に遭った宮城県山本町は、いまブランドイチゴの産地として注目を集めています。
そのきっかけとなったのは震災当時、東京でITコンサルタント会社を経営していた岩佐さん(41歳)が、故郷の復興支援として着想したアイディアだったんです。
今では大手デパートからひと粒1000円で引き合いのくるブランドイチゴ、農業に素人だった岩佐さんは地元のベテラン農家の人達の栽培ノウハウを数値化する等、IT技術で水分や栄養を自動でコントロールするシステムを作りました。
それが被災地の経済基盤を作った実績から、現在では新規就農者をふやすサポート事業、あるいは海外の地域おこし事業にも展開が広がっています。

今イチゴ狩りの彩色になっています。
山本町は人口が1万2000人ぐらいしかいませんが、イチゴシーズンを通じて半年で約5万人が来てかなりにぎわっています。
最近では海外からもお客さんが来ています。
東京の大手デパートからひと粒1000円で引き合いのくる、食べる宝石と言われるイチゴがあります。
来ていただくと30分食べ放題で2000円前後で食べられるので、かなりお得だと思います。
24歳で会社を立ち上げて15年近く会社を経営していました。
宮城県山本町が震災で大きな被害を受けました。
山本町では600人以上が津波で亡くなってしまいました。

山本町の特産はイチゴでした。
イチゴハウスも95%無くなってしまって、129軒あったイチゴ農家も残ったのは僅か5軒だけとなってしまいました。
宮城に帰ってなんか役に立てないかと思いました。
先ずは手伝おうと思って、イチゴ農家の復活の為、どろをさらうようなボランティアを何ヶ月かやりました。
地元の方から私の経験を生かして雇用を作って欲しいと言われました。
イチゴの農業生産法人をつくることを決めました。
復興の為の或るイベントに参加した200人ぐらいの人に、誇りに思っているのは何かを問い合わせたら7割の人がイチゴだと言いました。
当時震災前にはイチゴを10億円を出荷していました。

2011年9月にはイチゴをやろうと決心しました。
イチゴ作りの方法のベテランの人から聞きながらスタートしました。
橋元洋平君(41歳)との出会いが大きかったです。
彼は社会福祉協議会でボランティアの活動のアレンジをするような活動をしていました。
彼は5歳になる娘さんを津波で亡くしていました。
彼の活動に心を打たれて彼と一緒にやりたかった。
彼の親戚に橋元忠嗣さんというイチゴ栽培の大ベテランがいて、3人で立ち上げました。
最初イチゴの作り方を聞いたら、イチゴ作りは人から学ぶものではなくて、イチゴと会話しながら作るものだと、怒鳴られてしまいました。
15年間俺に付いてくれば、判り始めると言われてしまいました。
ITで再現出来たら早く立ち上げられるのではないかと思いました。
定量化して、リアルタイムで再現可能なようにIT、ネットワークを用いて管理することが必要ではないかと考えました。

地域特有の気候、土、など経験した作り方もあるので、匠の技とITの力を組み合わせると言うのが、大事なんだと思いました。
温度、湿度、二酸化炭素、日の光の強さ、水、肥料の濃度等細かい所までセンサーでデータを取って、最適な環境にリアルタイムでコントロールするという事をやっています。
天気予報もデータに入れて管理したり、雨の時にはすぐに天窓が閉まるだとか、全自動で出来ます。
最初の収穫は2011年にスタートして11月にイチゴを植えて2012年1,2月には収穫できました。
初年度はビジネスの事は考えずに、お世話になった人々にイチゴを配りました。
日本では夏は輸入しているが、夏イチゴにも挑戦して3,4年目に取り組みました。
夏イチゴは日照時間、温度などコントロールするための装置も必要になってきます。
試行錯誤はいまだに続いています。

温度、湿度など光合成を最大化させるための、あらゆる努力をすると言う事で、イチゴの糖度、味の濃さも上がってくるわけです。
糖度は他の地域のものに比べて9割がた高かったです。(100日間調べての結果)
ただ甘ければいいと言うだけではなくて、酸度とのバランスで好みも違ってきたりはします。
地域社会に農業の担い手ががいっぱい集まってきて、農業が強い産業に育つというのが目的です。
イチゴ作りを独立してできるような支援ビジネスも行っています。
8つの農業経営体の方が独立してやっています。
民間と行政が連携してやるのが、一番重要なのかと思っています。
海外で生産を始めたのがインドです。
ある民間企業と政府のJICA - 国際協力機構と一緒にインドの農業技術開発を応援すると言うプロジェクトをスタートさせました。

グローバルで通用する産業が出来れば、場所は関係ないと思いました。
インドは大変な部分もあるのでインドに行きました。
土地も痩せているし、水も無い、インフラも無いという事で1から立ち上げました。
電気をひいても30分に一度ぐらい停電があり、無停電電源装置、発電機なども置いてスタートしました。
インドでは女性の雇用が難しくて、女性の強い雇用という目的もありました。
インドで4,5年目にスタートして当時高校生だった人が大学を出て、山本町で働いている男の人もいます、そういった交流も生まれています。
技術研修で来ている人もいます。
2013年から出荷が始まってインドの高級ホテルなどに出荷されています。
マレーシア、中東といった処でも栽培の試験をしています。
強い農業を育てると言うのがミッションとしてあります。
10年で100社1万人の雇用機会をつくろうというビジョンをたてましたが、あと数年で10年になりますがかなり出来て来ました。