2019年1月28日月曜日

頭木弘樹(文学紹介)           ・【絶望名言】金子みすゞ

頭木弘樹(文学紹介)           ・【絶望名言】金子みすゞ
私が寂しい時によその人は知らないの。
私が寂しい時にお友達が笑うの。
私が寂しい時におかあさんは優しいの。
私が寂しい時に仏様は寂しいの。  金子みすゞ 

童謡詩人として大変人気のある方です。
感じのいい事を感じのいい言葉で言っているだけの人みたいに思ってましたが、後からそんな薄っぺらい人ではなかったという事を知りました。
この詩を読んで金子みすゞに対する印象がガラッと変わりました。
「私が寂しい時によその人は知らないの」
これはまさに私が難病で病院に入院している時で、まさにピッタリでした。
大学3年で難病に罹り、それからから13年間闘病生活を送りました。
「私が寂しい時にお友達が笑うの。」
痛みは一瞬でも忘れることはできないが、いくら親身な友達でも、なんかで笑ったりして友達のことは忘れる。
本当に悲しいのは当人だけだ、という事実はとっても孤独です。
「私が寂しい時におかあさんは優しいの。」
肉親ともなれば他人とは違ってより親身ですが、やっぱり当人とは違う。
「私が寂しい時に仏様は寂しいの」
本当に同じ寂しさを感じてくれるのは仏様だけという事。
仏様でなければ同じ寂しさを感じる事はないという事で、他人が自分と同じ寂しさを感じることはない。
自分の気持ちを理解してくれることはいないということです、それに気付いた時、人は凄く孤独です。
孤独を感じて苦しんでいる時に、この詩を読んだら凄く救われるのではないかと思います。

「おもちゃの無い子が寂しけりゃ、おもちゃをやったら治るでしょう。
母さんの無い子が悲しけりゃ、母さんをあげたら嬉しいでしょう。
母さんはやさしく髪を撫で、おもちゃは箱からこぼれてて、それで私のさみしいはなにをもろたら治るでしょう。」
寂しさの中には解決策があるものもあるが、どんな事をしても解決できない寂しさもある。
解決策の無い寂しさを金子みすゞは詩にずーっと詩い続けてきたのではないかと思います。

「あかるい方へあかるい方へ一つの葉でも陽の漏るほうへ、やぶかげの草は。
あかるい方へあかるい方へはねはこげよと、陽のあるとこへ、夜飛ぶ虫は。
あかるい方へあかるい方へ一部も広く陽のさすとこへ、街に住む子らは。」
今は暗い所にいるからこそ、あかるい方へと祈っているんじゃないかと思います。
ヴェートーベン 苦悩しているからこそ「歓喜」を求める訳です。

金子みすゞの生い立ち
1903年4月11日 同じ年生れのの作家 山本周五郎、小林多喜二、林ふみ子など。
金子みすゞは26歳で亡くなっている。
詩を書き始めたのは20歳の時。
家は本屋さんだったので店番をして、西条八十の童謡に感激して童謡を書くようになる。
当時色んな童謡雑誌が誕生した時期でした。
「赤い鳥」の撰者が北原白秋、「金の舟」の撰者が野口雨情、「どうわ」の撰者が西条八十でした。
金子みすゞも投稿するようになる。
当時山口県の下関にいた。
童謡ブームが急速に去って行き、第二次世界大戦前で軍国色が強まってきて、「赤い鳥」などが廃刊して行く。
投稿先が無くなって行き、そのときに書いたのが「あかるい方へ」という詩でした。
昭和2年の23歳の頃の作品。
私生活でも辛い時期で、周囲の勧めで店員と結婚するが、夫が遊郭に遊びにいってるばっかりで、まだ籍が入って無くて離縁した方がいいと周りが言った時には、金子みすゞは妊娠している事が判ったわけです。
正式に婚姻届を出すということになる。

「寂しい王女」
「強い王子に救われて城に帰ったお姫様。
城は昔の城だけど、薔薇も必ず咲くけれど、何故か寂しいお姫様。
今日もお空を眺めた。
魔法使いは怖いけど、あの果てしない青空を、白く輝く羽根のべて、
遥かに遠く旅してた小鳥の頃が懐かしい。
街の上には花が飛び、城に宴はまだ続く。
それもさみしいお姫様、一人日暮れの花園で、まっかな薔薇は見も向かず、
お空ばかりを眺めてた。」
これは王子に救われたくはないということです。
金子みすゞにとって結婚という制度は、人生を台無しにしてしまった出来事だったと思います。

「思い出すのは病院の少し汚れた白い壁。
長い夏の日一日を眺め暮した白い壁。
小さい蜘蛛の巣、雨のしみ、そして七つの紙の星。
星に書かれた七つの字、め、り、い、く、り、す、ま 七つの字
去年その頃その床にどんな子供が寝かされて、
その世の雪に寂しげに、紙のお星を切ったやら。
忘れられない病院の壁にすすけた七つ星。」
この描写は色んな人の色んな思いが詰まっているという感じがします。
金子みすゞが入院したのは26歳の夏なんですね。
原因は夫から性病を(淋病)うつされてしまって重病となったため。
病気をうつした夫は又浮気に出掛ける。


「できましたできました
かはいい詩集ができました

我とわが身に訓(おし)ふれど
心をどらずさみしさよ
夏暮れ秋もはや更(た)けぬ
針もつひまのわが手わざ
ただむなしき心地(こゝち)する

誰に見せうぞ
我さへも心足(た)らはず
さみしさよ

(ああ、つひに、
登り得ずして帰り来し
山のすがたは雲に消ゆ)

とにかくむなしきわざと知りながら
秋の灯(ともし)の更(ふ)くるまを
ただひたむきに書きて来(こ)し

 明日よりは、何を書こうぞさみしさよ」

「巻末手記」というタイトルの詩。
山に登ろうとして挫折して途中から戻ってきてしまった人、山に登ることができなかった人、山に登ろうと思う事さえできんかった人、その方の人に興味があります。

リハビリで歩いている時に元気な時には気付かなかった僅かな段差、傾きが気付く。
それは大事なことだと思います。
山に登り損ねると言う事は、挫折して地上に戻ってきた時に見え方が違ってくると思います、それも貴重なことだと思います。
昭和5年3月10日、夫に子供を取られそうになったことが、自殺の最後の引き金になったと言われています。
睡眠薬を大量に飲んで自殺してしまった。

「上の雪寒かろな。 冷たい月がさしていて。
下の雪重かろな、何百人も乗せていて。
中の雪さみしかろな、空も地べたも見えないで。」
この詩にはみすゞのものの見方が凄く良く現れてれている。
雪を三つに分けてとらえていることが、普通なかなかできないものの見方で、それぞれの雪の思いを捉えている。
人に対してもそうだと思います。