大野和士(指揮者) ・【母を語る】
1960年昭和35年東京生まれ、神奈川県立湘南高校から東京芸術大学指揮科に進み、その後ヨーロッパに留学、1987年にアルトゥーロ・トスカニーニ国際指揮者コンクールで優勝。
翌年ザグレブ・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任、音楽監督も兼務して1996年まで在任した。
その後、ドイツ、ベルギー等で音楽監督を務め、2008年からフランス国立リヨン歌劇場において、首席指揮者として活躍を始めた。
2015年からは東京都交響楽団とバルセロナ交響楽団の音楽監督を務め、2018年の秋には新国立劇場の芸術監督に就任しました。
幼いころから音楽に興味をもった大野さんに、指揮者としての基礎の道筋を付けてくださったと言う、お母さんについて話を伺います。
いつも自分が現在やるべきことと、未来のあるべき姿を思いうかべながら活動しています。
自宅はベルギーにあります。
生れは東京ですが小学校3年生で横浜に引っ越してきて、大学卒業まで横浜にいました。
20代半ばからヨーロッパに留学して、ベースとしてはヨーロッパという事でやってきました。
日本には3か月位いましたが、東京都交響楽団と新国立劇場の芸術監督に就任しましたので、その活動を加えますと、4カ月位になってきました。
この仕事を引き受ける時に、いままでオペラ劇場で仕事をしていて演出家、歌い手さんの情報もあったし、日本の若い沢山の大勢の声尾をオーシション等で集中して聞いてきたので、いま手にできる材料を元に新国立劇場に貢献できたらと思って、引き受けることにしました。
ドイツでは沢山のオペラ劇場がありました。
ドイツでオペラの勉強を始めて、ブリュッセル、フランス、スペイン等で勉強しましたが、最初はクロアチアのオーケストラから始まったので、戦争の時だったので苦労をしました。
英語、ドイツ語、イタリア語、フランス語を初めのころ学んで、フランス語、スペイン語をその後学びました。
スペインでは独立運動が盛んなところにいるので、カタルーニア語もやらなければいけないと思って苦労しています。
父が音楽が好きでレコードを買ってきて聞いていて、ヴェートーベン三番交響曲「英雄」の頭に迫力のある衝撃的な和音があるが、それにショックを受けて、ジーンときましたが、その思い出がいまだに耳の奥底に残っていて、音が聞こえてくると嬉しかったので、踊ったり転げ回ったししたそうです。(3歳のころ)
幼稚園の卒園の時に、何になりたいのか聞かれた時に指揮者と書いてありました。
母も小さいころから音を聞くと踊ったりしていたそうです。
女学校時代に薙刀を習って、私によく見せてくれました。(快活でした)
オルガン、ピアノを習い始めたのは、兄がやっていたので始めましたが、そのうち私が熱心にやるものだから、兄はそのうちに辞めてしまいました。(5歳のころ)
母は女学校時代にお茶とお花をやっていて、お稽古ごとの厳しさが好きで、私が指の練習をしているといつの間にか母がやってきて、肩を掴まれたりしていました。
大学に行くようになって、母はお茶の師範として、町の方々を弟子を取って始めるようになりました。
家の中に和(母のお茶)と洋(私のピアノ)の生活してきて自分の音楽家としての人生にも大分影響与えてきたと思います。
若い自分に余り間口を狭くしてはもったいないという事を、母は言っていました。
母は割とおっちょこちょいなところがあり、ものに取りつかれることのある母でした。
音楽の道に進むことに対しては、母は内心大分心配していたと思います。
芸大を卒業後、留学して順風満帆に思えるが、指揮者はオーケストラが無いと指揮者にはなれない。
大学ではそういった機会はほとんどなくて、ピアニストを前にして自分ではもやもや繰り返していて、年に一回披露する機会が与えられるわけですが、自分が思っていたようには動かなくて、指揮者はオーケストラの音が出る一歩二歩先を進んでないと、オーケストラはあのように音が出てこないんです。
タイミングが判らないと、オーケストラは沼地の様になる。
大海原に一人だけ投げ出されてしまったような感じです。
オペラの勉強をしたかったが、作品作品にあった歌い方、フレージング、オーケストラの響きとかを決めて行くのが指揮者の仕事ですが、それをどうやってやっるのかという事が知りたくてミュンヘンに留学したわけです。
カルロス・クライバーという名指揮者がいて、隠れて練習を見に行ったりしました。
セルジュ・チェリビダッケ 名指揮者が指揮をしていて、神様に愛されている巨人達を見て、このような人達になるには不可能ではないかと思った時期がありました。
壁の厚さ壁の高さを思い知ったことがあり、指揮者として契約する立ち場になって、一曲一曲100%織りこんで刻みこんで成功してゆくことから、クロアチアのオーケストラで指揮をすることになり、最初はもの凄く時間がゆっくり流れれてゆく感じでした。
戦争のなかで、オーケストラは演奏会を一回も辞めなかった。
客席は普段よりも一杯になりました。
民族的な紛争で揺れているけれども、音楽をやっている我々の現実と聴衆たちの世界はナショナリズムではなくてインターナショナリズムであると、だからこそ音楽は真の意味で民族を越えて、国境を越えて、人々の中にひとしく浸透する経験をしました。
シオン物語を新国立劇場でオペラの公演を行います。
母は亡くなって3年になりますが、自分の事のやりたいことをやって、それであるからには自分で責任を取りなさい、と生き方を押し指してくれたと思います。
ひなた、となり、影をサポートしてくれて、その裏には彼女自身の素質があって私自身が育まれてきたことは一番感謝していることです。