2019年1月5日土曜日

大村崑(俳優)              ・崑ちゃんの笑いと涙の半生記

大村崑(俳優)              ・崑ちゃんの笑いと涙の半生記
今年米寿を迎える大村崑さん。昭和6年生まれ87歳。
TVの草創期に「番頭はんと丁稚どん」や、「頓馬天狗」などで一世を風靡し、その後も「細うで繁盛記」などで活躍、去年の大河ドラマ「せごどん」では西郷隆盛の祖父の役を演じ、存在感をしめしました。
今年11月1日に米寿を迎えますが、今もTVドラマなどで元気な姿を見せてくれています。
崑ちゃんの愛称で親しまれる大村崑さんに、TV草創期の思い出など、笑いと涙の半生、若さと元気の秘密を伺います。

歳に見えないと良く言われます。
去年の大河ドラマ「せごどん」では西郷隆盛の祖父の役をやりました。
大河ドラマのオファーが来た時には、ドッキリカメラかと思いました。
無精ひげをはどうしましょうといったら、はやして下さいと言う事で自前の無精ひげをしました。
立ち居振る舞いができるかどうかを見せてOKとなり、スタートしました。
広大なスタジオ、大きな大木が真ん中にあり、最初にそこに上がるのが僕でした。
高所恐怖症なので大変でした。
監督から良く撮れたと言われて安心しました。

兄弟の中で一番上で、父は写真館の主で、母は町の電気屋さんの商売をしていて豊かでした。
或る時父に連れられて行った時に、楽屋で遊んでいるとおしろいを塗られてかつらをつけられて、舞台に出ることになり、やったら歓声、おひねりが飛んできたりして、それが僕の身体の中に住みついてしまいました。
学校で何になりたいと言われて時には、大概の人は陸軍、海軍大将になりたいと言っていましたが、僕だけは役者になりたいと言ったら、先生に殴られました。(戦争中の時代)
小学校2年生の時に父が腸チフスの菌をもらってしまい、町内から村八分になり昭和16年1月1日に亡くなりました。
おじさんの家に養子にいきました。
兄弟は親戚に貰われて行きました。
「おばちゃん」と呼んでいたのを「おかあさん」と呼びなさいと言われて、殴られていまだに片方の耳が難聴になっています。
写真屋だったので結婚式とお葬式の写真を一緒に焼くので、おじさんに別に焼いたほうがいいといったら、逆鱗に触れて、写真屋をつぐんだろうといわれたが、芸能界に入りたいと言ったら「そうか、お前の好きなようにやれ」と言われました。
新世紀というおおきなキャバレーがあり、そこは芸能人が出入りしているという事で、そこに試験を受けに行きました。
眼鏡をかけていたら一発で落ちました。(接客には眼鏡は駄目と言われていた)
縁なしの眼鏡だったらOKということに後日入ることができました。
ボーイが40人いた中で2年ぐらいで、主任が一番上で次がボーイ長で、副ボーイ長になりました。
司会をさせてもらうようになり、本職の司会者が辞めてしまって、司会者になって江利チエミさん、雪村いづみさん、美空ひばりさんとかきて、雪村いづみさんのマネージャーになんとかぼくをプロにしてくださいとお願いしたら、大久保怜さんを紹介して貰うことになりました。
やる仕事は縁の下の力持ちで、ボールを袖で投げていたら、出て来いと言われて、ボールを客席にヘッデイングで放るような形でやったらそれが物凄く受けました。
笑ってくれることは幸せだなあと思って、笑いの世界に入っていこうと思いました。
北野劇場に入れてもらいました。
佐々十郎さん、茶川一郎さん等と出で会ってコントをするようになりました。
そこでの経験が僕の基礎になりました。
花登 筺(はなと こばこ)さんとの出会いが僕にとって幸運でした。
花登 筺さんと一緒にTVに進出して行く。
最初は昭和33年から35年にやりくりアパート』(佐々十郎,茶川一郎,大村崑)
大阪の下町にあるアパート「なにわ荘」を舞台に、住人である青年3人組や管理人一家が巻き起こすドタバタを描くコメディです。
昭和34年には『番頭はんと丁稚どん』 ファンレターが一カ月に柳行李に一杯になりました。
同年 『頓馬天狗』 白い頭巾をかぶった鼻眼鏡で木馬に乗ってやってくる。
生放送を週に9本掛け持ちで持っていて、睡眠不足になりました。
鼻眼鏡は小学校2,3年生のころ母親のまねで針仕事をして見せたら笑っていました。
 「細うで繁盛記」「どてらいやつ」「赤い霊柩車」シリーズなどにも出演。

実の親が腸チフスで亡くなった時には非常につらかった。
学校ではうつると言って周りの人は近寄らなかったし、銭湯にも入れてくれなかった。
親戚が考えて学校も変えて、その後は誰からもいじめは無かった。
二度目の母親がすごかった、負けたらいかんというのを常にいっていました。
そういったことも基礎になったと思います。
戦争の時のひもじさ、死体の整理などをやらされたり、戦争が早く終わって欲しいと思いました。
道端に夏ミカンの皮が落ちていて、拾おうと思って手を出したら、地下足袋でその上から踏まれ、おっさんがそれを取って腹巻の中に入れて、ひとかけら口に入れてどんなもんだと言うような顔をしていたのを、今でも思い出します。
新世紀に勤めていたころ、ビリヤードをやっていた時に、喀血で病院にいったら結核でした。
母が医者に寸志として砂糖などを持って行き交渉して、翌日医者の処に行くことになりました。
お金のあるうちは進駐軍の新薬を注射されることができました。
6時間の手術をして、医師から40歳までしか生きられないぞと言われました。
何故元気でここまで来たのかわからないが、笑いがいいのかもしれない。
今ジムへ通って9カ月になります。
元気の源は強いて言うなら眠ることかもしれない7,8時間は眠ります。
酒はウイスキーの水割りとかで飲んでいます。
歯は全部自分の歯です。
歯石を良く取りなさいと大川橋蔵さんから言われました。
食べ物は「まごはやさしい」 マメ、ゴマ、わかめ、野菜、刺し身、シイタケ、イモ
を良く噛んで食べる。
夢はもう一遍大河ドラマに出たいのと、横綱審議委員会に出たいと思います。