野澤松也(歌舞伎義太夫三味線奏者) ・人生"台本"どおり
1955年広島県生まれ、松竹歌舞伎の三味線方として歌舞伎の舞台を務めながら、ライフワークとして創作浄瑠璃の会を発足させ創作浄瑠璃に弾いが足りをしています。
創作浄瑠璃とは日本の昔話や民話、土地に伝わる話等から物語をつくる浄瑠璃の節をつけたものです。
これまで桃太郎をアレンジした「「天晴桃乃鬼退治」(あっぱれもものおにたいじ)」、本所七不思議あかりなし蕎麦のお話を参考にした「灯りなし蕎麦屋」、ごん狐をアレンジした「『権情栗教譚』ごんなさけくりがおしえるものがたり」など30もの作品を世に出しています。
東京、京都でのライブのほか学校や幼稚園、老人介護施設などでも披露しています。
野澤さんは日ごろから、私は創作浄瑠璃を含めて台本通りの人生をおくっているとおっしゃいます。
2004年に創作浄瑠璃の会をつくりました。
16年目に入ります。
月見の会があり、色々話があり、一カ月あとの満月にもやろうと言う事で月に関する話を弾き語りでしました。
皆さんに俳句を書いていただいて、それをその場で浄瑠璃をしましょうという事で、書いていただいたものに節をつけて浄瑠璃の弾き語りをしましたら、とても好評でした。
昔話に浄瑠璃の節をつければ浄瑠璃になると思って、それから始めたのが創作浄瑠璃です。
最初に作ったのが、笠地蔵の話でした。
30分位になりました。
本調子、二上り、本調子、六さがり、本調子に戻ると言う調子がずいぶん変わります。
直ぐに浮かんだのが笠地蔵でした。
*笠地蔵の一部を演奏。
浄瑠璃を子供たちに聞かせたかったので、聞いてもらいました。
大人と違って先入観がないのでとても静かに聞いてくれます。
創作浄瑠璃は30を越えてしまいました。
歌詞を読んで自分で想像を巡らしながら音を付けて行くので、余りこうしなければああしなければいけないという事はないです。
歌詞にあった音をつくりだすのが作曲家の使命で、自分でやっていて面白くて苦労というのは無いです。
三味線が重いのとバチが大きいので子供が弾くのはたいへんですが、音が出るので子供達は楽しんでいます。
今の学校の授業は邦楽を聞いたり演奏したりする時間がほとんどない。
披露するところは学校だけではなくて介護施設に行って演奏しています。
首をうなだれていて、演奏して5分もしないうちに身体が起き上がってきます。
手足でリズムを取ってきたりします。
広島の原爆をテーマにした浄瑠璃「広島に咲く希望の花 カンナ」
母から三味線を弾きに来てくれないかと言われて、弾いた翌日に広島原爆資料館に何故か行くことになりました。
出口の処にまばゆい光が見えて、写真がありました。
被爆後75年は草木も咲かないと言われた広島の焦土に、たった一ヵ月半で花が咲きました。
この花を見て希望の光が見えたと言うことで復興に携わったのでしょう、と書かれていました。
原爆の話、是非これも浄瑠璃にしようと思いました。
父親も被爆していたので聞こうとしましたが、当時のことを思い出したくないので、一言もしゃべってくれませんでした。
母親の知っている人から話を聞くことができて作ることができました。
カンナの花を主人公にして、カンナの花が見た情景ということで作って行きました。
最初100人ほど来てくれましたが、聞きたくないというような人もいてしばらく辞めていましたが、続けて行こうと思って広島でライブをする時にはやっています。
最初に演奏した時に私が小学校の時の校長先生が来ていて、学校でもやって欲しいという事で演奏する機会を得ました。
その校長先生が校長会で話をしてくれて、20何校から声が掛かり演奏させてもらいました。
カンナの球根をわたして育てて花を観ることによって、思い出してほしいと思いました。
長野の農園業者の田辺さんに寒さに強い球根を100個欲しいという事で、それまでの広島のいきさつの話をしをしたら、そんないい話だったら100個でも200個でもただでやるから持って行けと言われました。
小さい頃、とにかく声が小さくて会話ができない位でした。
話さなくて済む昆虫とか蛙とか小動物と遊んでいました。
中学2年の時に母に連れられて、三味線の稽古に行ったのがきっかけでした。
始めて行って吃驚したのは、周りからちやほやされて必ず稽古に行って三味線も好きになりました。
高校の16歳の時にTVの文楽を見て音に惹かれました。
太棹の音は習っていた細棹とは違っていました。
その翌日の新聞に国立養成所の研修生の募集があり、願書を出して16歳で東京に行きました。
1972年文楽の第一期生になりました。
2年間の研修制度があり、三味線、太夫、人形で構成されています。
1年目はみんなやり、日本舞踊、狂言、裏千家、大学の先生の講義などもありました。
正坐にはみんな苦労しました。
最初5分しか坐れなかったが、今は4時間坐っていられます。
研修終了後、野澤松之輔の内弟子となり稽古をしていましたが、師匠が一年で亡くなって、大阪の師匠の処に行きましたが上手く合わなくて辞めて、アルバイトをしながら生計を立てていました。
歌舞伎も三味線が足りないので来てくれないかという事で、松竹歌舞伎に行くことにないました。
文楽では駄目だが歌舞伎に移ったことで、弾き語りができるようになりました。
母は僕をおろすつもりが、隣りの松浦さんに話したら、この子を生みなさいといって松浦さんが乳母をしてくれました。
松浦さんに被爆の話を聞いてカンナの話ができました。
寒さに強いカンナの球根の話があり全部繋がっているんです。
創作浄瑠璃を始めた頃人間関係で厭で毎日死にたくて、苦しい時期がありました。
いつでも死ねると思うと楽に生きて行けることがわかってきて、色んな事を思い出して行っていると、筋書き通りできる訳です。
世の中で起きていることは偶然ではなく必然なんだということ、生れて死ぬまで台本が出来ていると、今まで悔やんでいたこと、先々のこと等を気にしなくていいんです、台本に書かれているから、だから毎日がハッピーです。
創作浄瑠璃を沢山の人に知ってもらいたい、子供達に日本の伝統文化を知ってもらいたい。
欲を無くしたら、周りがどんどん動いてくれるんです。