2019年1月4日金曜日

角幡唯介(ノンフィクション作家・探検家) ・極夜を行く

角幡唯介(ノンフィクション作家・探検家) ・極夜を行く
本屋の店員が一番読みたい本を選ぶ、本屋大賞のノンフィクション本大賞に角幡唯介さんの「極夜行」が選ばれました。
探検家として4カ月も太陽が昇らない北極の冬、極夜を冒険した日々がつづられています。
角幡唯介さんは北海道芦別市生まれ42歳、早稲田大学探検部のOBで、新聞記者を5年務めたあと、本格的な執筆活動に入りました。
2009年にはチベットにある世界最大の峡谷の未踏地帯を一人で踏破、その探検を記した「空白の5マイル」で開高健ノンフィクション賞を受賞するなど様々な著書を発表しています。
角幡唯介さんは太陽が地平線の下に沈んで、姿を見せないという極夜の先に何を見たのか、何を感じたのか伺いました。

「極夜行」グリーンランドのシオラパルクから極夜の深奥部に向かってたった一人でで犬一匹と往復で1300kmを目指した。
昔から極地探検記が好きで、100年以上前の北極探検の本などでは、準備をして太陽が上がって明るくなって探検に向かう状況が描かれている。
そういったものを読んでいて、極夜で過ごすってどんな事なのかとか、太陽があがるとはどういうことか、ということへの関心があって、いつの間にか自分も行ってみたいと変わっていった。
暗闇の世界の本質を探って行く、最期に太陽を見た時に自分がどう感じるか、その太陽とは何かなど、普段考え無くなったことに対して経験できるのではないかと思いました。
結婚して子供が生まれても、やりたいなという気持ちは変わらなかったです。
氷点下30,40度は当たり前でしたが、でも寒さには慣れます。
ブリザードは怖いが四六時中吹いているわけではない。
暗闇はズーと続くので暗闇に対してのストレスは、蓄積するのが凄く大きいです。
見えないことで困難度は上がりますから。
暗さも一律ずーっと続くわけでも無くて、極夜が始まったばっかりは地平線の近くまで太陽は昇ってくるので昼間はだいぶ明るくなります。
月もあるので月の明るい時間帯に合わせて、自分の生活のリズムを作っていく感じです。

GPSを使わないで旅をしようと思いました。
GPSを使うと極夜に行く意味がなくなる。
極夜という闇の中で旅をするとどういう感覚になるのか、極夜というものはどういう世界なのかを洞察したかった。
極夜の闇の本質を知りたいわけです。
自分の居場所が判らなくなるのが一番怖いわけです。
そういった状況では、明日明後日の事が計画立てられない。
生きて村に帰れないかも判らない、という状況になる訳です。
自分が生きているということに、リアルの想像出来なくなる。
六分儀も最初に飛ばされてしまって、地図とコンパスで対応しました。
北極圏は起伏があまりないので、判りにくい。
五感を使って、ソリの重さでのぼっている、下っていることを判断する。
コンパスも信用できなくなってくる事があり、星を見ながら最終的に進むとか、する訳です。
GPSを使って暗い中を歩いてきましたと言っても、なにも発見はもたらされないので行く意味がないわけです。
星の輝きは北極よりも日本の冬山登山で見る星の方が綺麗に見えます。
月はあまり変わらないです。
月に照らされた氷原、ツンドラの台地は綺麗で、地球ではないような感覚があります。
星座を観ていると星は個性があることが判って来るし、星座の物語が出来て来ることが判ってきます。
ずーっと星を見て真っ直ぐ歩いて行かなければいけないので、自分の命を握っている非常に重要な存在なので、星を自分の経験したことのないような形で見えて来る。
月明かりも行動する時の大きな要素になるので、月も自分の中で見えて来る。

2016年12月にスタートした極夜行、78日目に昇った太陽をみて、言葉ではなかなか表しにくいが、感動したという以外に何て言ったらいいかわからない。
物凄い、大きな火の玉のような感じがしました。
大きいなあと思うと同時に暖かいなあと思いました。
光は希望だと思いました。
暗いと未来が見渡せない、自分がどこにいるのか判らない。
見えている、見えていないという事は将来の自分に対しての想像力と関わっていると思う。
見えると言う事は将来に対して、希望持てると言う事だと凄く判りました。
次に太陽を見た時にはそういった感動は覚えなかった。
根本的には生きている経験を、リアルに体験したいからだと思います。
普段は生とか死を意識しないのでそれをするには、飛びだして何かを経験しないといけない。
システムの外側に飛びだす事、システムの管理、方向付けが無いので混沌としたカオスが広がっている。
マニュアルが無いので全て自分が考えないといけない、そして行動する。
変な判断をして変な行動をすると、場合によって死んでしまうかもしれない。
生のダイナニズムがある。(判断、行動、結果)
それが本当の意味での自由だと思います、別の力等によって干渉されたりだとかが無い。
その自由はめちゃくちゃきついが、そこには生々しい手ごたえがあり、その手ごたえは日常管理されたシステムの中では味わえないから、冒険、登山をすると生きている実感が味わえるんだと思います。
今は成果ばかり重視して、本質的な事を考え無くなってきていると思います。
冒険の本質は人間の日常的な管理された枠組みの外側に出ることですが、今はそういう場所が無いし、対象が見つからないから、判りやすい目標にみんなむらがってそれが冒険だとみなされつつありますが、本質は違うと思います。
僕の場合本を書きたいということがあるので、自分の行動をどう表現したいか考えるので、本質的な事をしたいとか、物事突き詰めて考えてという傾向はあると思います。
書くことは行動起こすと事と同じ重要性を持っているので、本質的な事を最終的に書きたいと思う気持ちがあるので、そういうことも冒険に駆り立てる一因としてあるのかなあと思います。
後悔したくないという気持ちはあります、人生一回ですから。
迎合したくないという気持ちはあります。
耳触りのいいメッセージをしたいとかは思わない。
自分からこういう生き方をすべきなんじゃないか、とかというつもりはないです。
今年は犬ぞりを始めようかと思います。
犬ぞりだと自分のやりたいことができるんじゃないかと思って、可能性の広がりというか、そいうのを感じて本格的に犬ぞりのトレーニングをしようかなと思っています。
極夜行等で自分が蓄えた知識を使わなくなるのは勿体なあと思い始めて、自分が使える場所みたいなものを広げて行って、それを使って旅を出来ることを目指しています。
極夜行以後探険的に自分で新たなものがみつかっていなくて、もっとうまい極地旅行家になりたいという気持ちが強いです。
或る意味極夜よりもはるかに探険的な試みになるかもしれない。
自分を突き詰めている旅ですが、自分の中には万人に共通する普遍的なものがあるはずだから、極私的なものを突き詰めれば突き詰めるほど、普遍的なものが見えてくると思うので、自分の中に眠っている普遍性みたいなものを書きたいなあということです。