本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・【近代日本150年 明治の群像】後藤新平
後藤新平 安政4年6月4日(1857年7月24日) - 昭和4年(1929年)4月13日)71歳。
講談による紹介
安政4年6月4日 仙台藩の下級武士の息子として生れる。
江戸時代後期の蘭学者・高野長英は遠縁に当たる。
医学の道を志し、17祭で17歳で須賀川医学校に入学。
卒業後は愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)の医者となる。
ここで彼はめざましく昇進し24歳で学校長兼病院長となり、病院に関わる事務に当たっている。
明治23年(1890年)、ドイツに留学。
明治25年 衛生局長にまで昇り詰める。
医学だけにとどまらず、満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣、東京市第7代市長、台湾総督府民政長官、などなど。
明治31年(1898年)第4代台湾総督長に児玉源太郎が就任。
歴代の総督がゲリラ問題に頭を悩ませていた。
児玉源太郎は後藤新平に声をかけて、自らの補佐役である民政局長にする。
武力により支配で長続きした国はない、軍政による支配ではなく民政によるべきものである、というものです。
「我々は台湾全土の一家団欒を望んでいます。
帰順したいものがあれば、自由に官邸に来てもよろしい。
もしこれを疑うなれば、こちらからそちらに出向いて話し合ってもよい。」
ゲリラに投降するように呼びかけたわけです、次々に投降してくるが、投降したゲリラを拘束したり、投獄することは一切しなかった。
彼等に土木作業など職を与えて、生活の面倒を見た。
その後港、道路、鉄道、上下水道などを整備し、台湾に近代化を推し進めて行った。
台湾運営の基本的な考えは「生物学の原則」に則ったものであると説明している。
「ヒラメの目は片側にふたつ付いている。タイの目は片側に一つづつ付いている。
ヒラメの目をタイの目の様にすることは出来ない、やってはいけない。」と語っている。
日本人が台湾にやってきて台湾人を日本人のようにしたって出来やしない、やってはいけないのだ、現地の人々の習慣を重んじることなのだと。
胆沢県大参事であった安場保和にみとめられ、後の海軍大将・斎藤実とともに13歳で書生として引き立てられ県庁に勤務した。
安場保和の娘さんを後藤新平は後に奥さんにしている。
当時は優秀なものは医者にしろというようなことに成っていた。
安場が愛知県令をつとめることになり、それについていくことにな愛知県医学校の医者になる。
刺された板垣退助を診察したのは、実はは後藤新平だった。
石黒忠則 森鴎外のライバルと言われるが、軍医と言うより医者である官僚であるという性格が強いが、石黒に認められて、内務省の衛生局に入って、官僚という形で行政に携わるようになる。
長與 專齋は当時の医師の仕組みを作った人で、この人の推薦で明治25年(1892年)内務省の衛生局長になり官僚として活躍する。
志賀直哉の祖父志賀直道が相馬藩の家令で、志賀家は家老より下の家系で300,400石位だった。
明治26年(1893年)相馬事件
志賀直道が相馬家の財産を使って財産を増やして相馬家が豊かになったが、その立役者だった。
相馬藩の藩士錦織が相馬家の財産を志賀氏が私物化していると訴えを起こす。
世論の支持を受けてしまう。
医学的に変な薬を投薬されてお殿様が調子よく良くないというようなことも言った。
医学的観点から意見を求めたのが、後藤新平だった。(志賀家とは反対陣営だった)
相馬藩主相馬誠胤(そうまともたね)が亡くなる。
志賀直道が変な薬で毒殺したんだ、という訴えかけたが、世論はそこまでやらないのだろうと言う事でその人から離れて行った。
毒殺の為の薬が体内にあるかどうか、毒殺の証明ができないということになり、後藤新平が言っていたことは嘘なのかということになり、長與 專齋が後藤新平を排除、医師として錦織を支持していた後藤新平も、連座して5ヶ月間にわたって入獄した。
衛生局長は辞めさせられた。
陸軍省医務局長兼大本営野戦衛生長官の石黒忠悳が、陸軍次官兼軍務局長の児玉源太郎に後藤を推薦したことによって、明治28年(1895年)4月1日、日清戦争の帰還兵に対する検疫業務を行う臨時陸軍検疫部事務官長として官界に復帰。
その行政手腕の巧みさから、臨時陸軍検疫部長として上司だった児玉の目にとまる。
明治31年(1898年)3月、その児玉が台湾総督となると後藤を抜擢し、自らの補佐役である民政局長になる。
後藤は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で経済改革とインフラ建設を強引に進めた。
後藤は人間を育てることは一番大切だと言っていて、人材育成を本格的に行った。
アメリカから新渡戸稲造を招いた際には、病弱を理由に断る新渡戸を、執務室にベッドを持ち込むことなどの特別な条件を提示して結局承諾させている。
阿片漸禁策
台湾でも阿片の吸引が庶民の間で普及しており、これが大きな社会問題となっていた。
後藤は、阿片を性急に禁止する方法をとらなかった。
阿片に高率の税をかけて購入しにくくさせるとともに吸引を免許制として次第に常習者を減らしていく方法を採用した。
施策の導入から50年近くをかけて台湾では阿片の根絶が達成された。
明治39年(1906年)、南満洲鉄道初代総裁に就任。
台湾で育てた人材を投入、徹底的な調査を行う。
満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。
関東大震災と世界最大規模の帝都復興計画
内務大臣兼帝都復興院総裁として震災復興計画を立案、大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を伴うもので、予算が無くて相当縮小されることになる。
パリ改造を参考にしようとしたが、激しい地主・地権者の抵抗を受けることとなった。
大正13年(1924年)、社団法人東京放送局が設立され、初代総裁となる。
しばしば総理大臣候補として名前が取り沙汰されながら結局就任できなかった原因として、最後の元老となった西園寺公望に嫌われていたことが大きいと徳富蘇峰が語っている。