ファイティング原田(日本プロボクシング協会前会長)・【特選 スポーツ名場面の裏側で】日本初の二階級制覇(2009・4.24 OA)
72歳、本名 原田政彦 今から57年前の昭和37年若干19歳で世界フライ級タイトルマッチに初挑戦、原田ラッシュというモノクロのTV中継をかたずを飲んで見詰めた方多かったと思います。
そのフライ級の世界チャンピオンになりますが、防衛戦で敗れその後減量の苦しみもあって一つ重いクラスのバンタム級に転向、この階級でも世界チャンピオンとなって日本史上初めての二階級制覇を果たしました。
歴代もっとも偉大な日本人ボクサーと言われた原田さん、20年以上にわたって日本プロボクシング協会会長を務められ、文部科学大臣によるスポーツ功労章も受賞されたファイティング原田さんに伺いました。
今は世界チャンピオンは女性が3人、男性が6人で9人います。
白井さんが日本人で初めて世界チャンピオンになったのが、昭和27年。
白井さんが敗れて10年間は世界チャンピオンはいませんでした。
昭和37年(40数年前)10月10日 19歳6か月で世界チャンピオンに挑戦。
相手はタイのポーン・キングピッチ選手。
僕は世界ランキングに入っていなかった。
同級1位の矢尾板貞雄が突然引退し、10位にランクされたばかりの僕に挑戦のチャンスが回ってきた。
迎えに行って握手しようとしてもそっぽを向いて、馬鹿にしたような感じを僕は受けました。
試合になってゴングが鳴って、11回に打って打って連打連打で倒して、そうしたのはお前がいけないんだよ、ファイト、ファイトで俺にファイトを沸かしたのがいけないんだよ、と思いました。
それからは外国に行く時には相手を思いやり必ず笑顔で握手をする、そう考えました。
TV中継をしていて、11回の連打でアナウンサーが原田ラッシュ、原田ラッシュと連呼していました。
史上最年少世界フライ級選手という事で新聞の一面を飾りました。
3カ月後バンコクに行ってポーン・キングピッチ選手とリターンマッチをしてきわどい判定で初防衛を失敗する。
会場は物凄い人達で、会場に入ってリングに上がるまで30分近くかかりました、揉まれて揉まれて上がりました。
上がったら疲れていて、セコンド陣がリングの角から降りられないとか、倒しても早くゴングが鳴ったりとか、全然めちゃくちゃでした。
バンタム級に転向して、「ロープ際の魔術師」の異名を持つ強豪、世界バンタム級3位・ジョー・メデル(メキシコ)と対戦するが、6回にKO負けする。
1964年10月29日、東洋王者・青木勝利に3RKO勝ちし、バンタム級世界王座への挑戦権を掴んだ。
世界バンタム級王者・エデル・ジョフレ(ブラジル) 8回防衛に成功し、すべてKOがちだった。
昭和40年5月18日、当時私は22歳でした。
ジョフレ選手は奥さんと子供を連れて来ていたので、試合をしに来たのにそんなことはないと思って自分なりにファイトがわきました。
僕のボクシングは下がったら負けだと思って、前進、前進だと思いました。
今までのボクシングスタイルを捨て、アウトボクシングに出た。
4回でいいパンチが当たっていたが、次の5Rには、ジョフレが強烈な右をヒットし、僕はコーナーを間違えるほどのダメージを負った。
15R迄行って、勝敗の判定は、日本の高田(ジャッジ)が72-70で原田、アメリカのエドソン(ジャッジ)が72-71でジョフレ、そして、アメリカ人バーニー・ロス(レフェリー)が71-69で原田、2-1の判定勝ちで僕は世界王座奪取に成功しました。
フライ級、バンタム級の2階級制覇をする。
翌年2回目の防衛戦でジョフレ選手と再戦をして、前回以上の大差で勝ったが、その時にTVの視聴率は63.7%という数値だった。
4回の防衛に成功して、オーストラリアのライオネル・ローズ選手と対戦、15回判定で敗れて王座を失う。
減量苦との闘いがあり、フェザー級と階級を上げていくことになった。
1969年7月28日、WBC世界フェザー級王者ジョニー・ファメション(オーストラリア)への挑戦が決まった。
この試合で2R、11R、14Rと3度のダウンを奪ってみせる。
判定でジョニー・ファメションの手を上げると、地元の人たちは足をバタバタさせたりして判定に対するブーイングだった。
地元の新聞によると、圧倒的に勝っていたと思うのに結果的に判定で敗れたが、潔く
ファメションの手を上げて祝福したと書いてあった。
結果として、地元判定に泣いた「幻の三階級制覇」だった。
翌年昭和45年に東京でファメション選手に再戦をするが、いい所が無いまま14RでKO負けし、この試合を最後に引退した。
プロ10年間で63試合で56勝7敗、23KO勝ち。
小学校の頃、勉強は大嫌いでしたが学校は大好きでした。
色々いたずらをしたりしていました。
中学卒業後米屋さんに行きました。
ボクシング入門は昭和33年でした。(15歳)
16歳でプロデビューしました。
小学、中学では野球をやっていたが、野球では大成しないと思って、ボクシングを見ていたりしてボクシングかなと思ってボクシングを始めました。
デビュー後26連勝負けなしでした。
ライバルに青木選手、海老原選手がいましたが、3人の中ではドンジリだと思い、彼らよりもとにかく余計に練習することを心がけました。
フライ級限度は50.8kg、普段は65kgで減量に苦しみました。
最期の落とし量なかなか落ちない。
減量の為水を飲まないように水道の元栓を閉めて、トイレに行った時に流す水を飲みたいなと思いした。
食事で腹いっぱい食べるのは、試合後の一日、二日だけです。
寿司、パン、ご飯などは食べません。
笹崎ジムの練習はハードでした。
19歳で世界チャンピオンになり、当時の総理大臣とか色んな方とお会いできたのは、やはり世界チャンピオンになったから、会えない人に会えたのは良かったと思います。
TV等にも出さして頂いたし、世界チャンピオンだという事で若い人達が目指すような、頑張れるように、作っていきたいという気持ちです。
「根性」という言葉は大好きです。
今の時代は食べれないという事はない、昔は終戦直後でそうはいかなかった。
昔はボストンバック一つで一人で来て、郷里には帰れないという思いがありましたが、今はお母さんと一緒にジムにお願いしますと言ってきて、いつでも帰れるような時代です。
そういった中でも頑張れる人はやはり凄いと思います。
努力なくして成長は無いです。
指導のモットーは挨拶と笑顔だと思います。