2018年11月16日金曜日

大森安恵(東京女子医科大学名誉教授)   ・【わが心の人】吉岡弥生

大森安恵(東京女子医科大学名誉教授)   ・【わが心の人】吉岡弥生
女子医学教育の先駆者の先駆者、吉岡弥生
明治4年静岡県に生まれる。
1900年日本初の女子養成機関として東京女医学校(現在の東京女子医科大学)を創設し、女性の医師を育てる教育に力を注ぎました。
昭和34年亡くなられました、88歳。
大森安恵 東京女子医科大学名誉教授 神奈川県海老名総合病院糖尿病センター長

私は今から30年前ごろ、女性が非常に多いので非常勤講師としてきてほしいということだったが、全く保守的で女性の教授、助教授、講師、医局長など全く女性の居ない学校で、そこで10年間行きました。
60年前に男性に下駄を履かせた、それは女子大学にならないようにする為ということだったというような話もあります。
男性、女性、お互いに助け合って仕事をするということはいいことだと思います。
吉岡弥生は漢方医・鷲山養齋の娘として生まれる。
自分も父親の様に医者になりたいと思っていたが、父親が反対した、3年かかって説得して、上京して済生学舎(現:日本医科大学)に入学した。
済生学舎明治9年にはじまって、女性にも開放するようになった。
1900年(明治33年)、済生学舎が女性の入学を拒否したことを知り、同年12月5日、日本初の女医養成機関として東京女医学校を設立した。(29歳)

ドイツに行きたいと思ってドイツ語を教える私塾・東京至誠学院に通学。
同年10月に、同学院院長の吉岡荒太と結婚した。
「至誠」 吉岡荒太がドイツ語の言葉から作った言葉。
8年後明治41年に初めて卒業生が生まれる。
卒業式にお祝いの言葉ではなく女性亡国論などで4時間もの議論になったそうです。
それをまとめたのが大隈重信先生で、女性は優しいので医療に適していると思うので、10年先20年先を見ようではないかといったそうです。
桐朋医科大学、大阪女子医専、帝国女子医専等あったが、直ぐに共学になった。
直ぐ男性が主流を占めるようになり、東京女医学校はそうはしなかった。
吉岡弥生先生の著書には哲学があって、素晴らしいです。

母が読んでいた雑誌に吉岡弥生先生の事がよく出ていました。
こういう先生になりたいと、心の憧れでした。
始めてお目にかかったのが、昭和27年の入学式の時でした。
2回目は大学2年の時に新聞部に入りインタビューをすることになり、色々話していただきました。
人と話をする時には相手の眼をみなさい、講演、授業などでも相手の眼をみなさいと言われました。
3回目は亡くなった時に、校葬の棺番の担当になりずーっと先生の優しい死に顔を拝見できました。
太平洋戦争中、大日本婦人会顧問など要職に就き、多数の青年・婦人の戦争協力を指導したということで、戦後、東京に戻り学校の再建に取り組むが、1947年(昭和22年)〜1951年(昭和26年)教職追放ならびに公職追放となる。
その後復帰する。
ビルマの女性を救うためにビルマにも女性医師を派遣する。
心のこもる手紙を周りの人達に細やかに書いている。
吉岡弥生記念講演を作ろうと発案して、一回目が作家の澤地久枝さんでその後ずーっと続いています。
吉岡弥生先生の名前と精神を継承するという意味では役に立っていると思います。
関東大震災、戦争などで病院が破壊されたり、金銭面での苦労など色々有りましたが、先生は常に前向きでめげないで歩んできました。
自分の出産の時にも、勉強になると思って学生に見せたということです。
吉岡弥生先生の慈愛に満ちたお話で、泣いたことを見たことが無いが父は泣いていました。

私も仕事に熱中すると家庭はどうしても疎かになってしまいます。
支援が無いとなかなか仕事をやり遂げるには難しいですね。
大学は人に教える立場なので一生懸命しましたが、まわりからも色々助けられました。
「笑うは時あり、泣くには時あり」と聖書には書いてあるが、結婚はいつでもいいと思いますが、結婚して二人になれば喜びが倍になり、苦しみは半分になるのでそれをしっかり守れというんですが、ついお子さんが生まれると研究してきたことを駄目にする人もあるので、そこで足切りになることもあるので、考えなければいけないと思います。
フォローするには完璧な保育所を作る必要があると思う。
国際的な交流をやることも大事だと思います。
ヨーロッパ糖尿病学会の Diabetes Pregnancy Study Group (DPSG) で毎年発表の機会を与えられ、ついに会員にさせて頂けました。
英語が上手でない事が益して却って友人や知人が沢山出来、糖尿病と妊娠に関する交流が深まりました。