2018年11月22日木曜日

古今亭志ん彌(落語家)          ・一門を支えながらの噺家人生

古今亭志ん彌(落語家)          ・一門を支えながらの噺家人生
68歳、東京都内各地の寄席でトリを務め、独演会では会場を満員札止めにするなど、耳の肥えた落語ファンをうならせている、古典落語の名手です。
志ん彌さんは24歳の時2代目古今亭圓菊さんに入門、真打ちとなって圓菊一門を支えて来ました。
しかし6年前に師匠の圓菊さんが亡くなったため、今は一門の若手の活動にも気を配りながら忙しい日々を過ごしています。
高校時代はサッカー選手として全国大会にも出場したという古今亭志ん彌さんに、40数年間一筋に打ち込んできた落語への思いをうかがいます。

月に10日位都内の寄席に出ています。
20日位は地方とか含めてどっかで動いています。
稽古をしないと滑舌(かくぜつ)が悪くなるし、話は忘れるので、稽古はしないといけない。
朝起きる前に頭の中でイメージトレーニングをします、しゃべって映像と一致するかどうかやっているうちに2時間位掛かります。
メディアに出ている方の人の方が少ないです。
真打ちは100人ぐらいいると思います。
人気者は人気者の役目はあるし、私達は私達の役目はあるし、総合的にみんなでやっている感じです。
古今亭志ん生の一門を受け継いで来ました。
2001年に古今亭志ん朝さんが亡くなられて圓菊さんが総帥となって展開してきました。
2012年に圓菊さんが亡くなられて、一門を維持するためにちょっと苦労しました。
私が前座のころから古今亭圓菊一門会を名乗らせてもらっていまだにやっています。
今思うとうまい具合に回っていると思います。

1974年24歳の時に入門。
高校時代は浦和南高校でサッカーをやっていました。
ポジションはフォワードをやっていました。
大学に行ってサッカーをやっていて、2年の時に試合中に蹴られて怪我をしてしまいました。
怪我をしなければサッカー関係の仕事をしていたかもしれないと思います。
高校時代コント55号がはやっていたが、或る一人が落語も良いよと言っていて、古今亭志ん生の話を聞いて志ん生師匠の所に行きましたが、池波志乃さんが出てきて、弟子を取らないと断られて、うちの師匠と出っ食わしました。
大学に行って落語の事は忘れていましたが、池袋演芸場に行くようになって圓菊師匠がやっていて面白いと思いました。
就職をすることになって、色々銀行、商社などがあったが、結局師匠の門を叩きました。
70年代、世の中が熱い時代で圓菊師匠の中にも同様なものを感じたし、私の反骨精神もありました。
弟子入りには必死でした。

前座の時には生活が厳しかったです。
師匠の子供をおんぶして、子守り等していました。
稽古は自分は不器用なので大変でした、師匠からお前みたいな不器用なやつはいないね、辞めちゃった方がいいとしみじみ言われました。
兄弟子と肩を並べようと頑張りました。
師匠の前で6時間位正座をして稽古をしましたが、正座が拷問の様に感じました。
師匠は志ん生師匠はこうやってやっていた、他の師匠はこういうふうにやっていたと言ってくれる事が大事でした。
どんなことがあっても稽古だけはしておけと、立川談志師匠からも言われました。
前座のころは行儀作法から鳴りもの、着物の着方たたみ方、噺、踊りなども教えてくれて本当に良かったです。
目の前の人を喜ばせられない人が、一杯いる寄席のお客さんを喜ばせられないのかなど、前座の頃の気遣い等の経験が、噺の方の気遣いになって来る。
同じ噺でも描き方が全部違う、それが面白いんです。

自分では最高だなと思った時も 3時間ぐらいたつとこんなひどかったのかと思います。
後で思うと笑わせようとしたり、無駄な事をしていたりしているなあとか思います。
そういった意味では目指す山は無くて死ぬまで稽古でしょうね。(いつも緊張しているわけではないが)
歳を経ないと、間の取り方はなかなか判らない。
落語はどうしたら面白くなるのかと聞いた時に、普通にやっていればいいんだよ、面白くしようと思うから駄目なんだよ、と言われました。
聞いている側に想像力が伝わらないといけない。
夢は、自分の噺をもっともっと聞いてもらいたいとの思いはありますね。