2018年11月24日土曜日

村井邦彦(作曲家・編曲家・プロデューサー)・東京・ロス 音楽生活50年(2)

村井邦彦(作曲家・編曲家・プロデューサー)・東京・ロス 音楽生活50年(2)
朝起きるととまずピアノの前に行き、描いている曲、気になっているハーモニーなど、目覚めるときに色んなアイディアが出てくるので忘れないうちにやっています。
身体を動かさないといけないので、週に1,2回ジムに行っています。
ゴルフもやったり、クラシックの公演に行くとか、展覧会に行くとかやっています。
常に興味を持ち続けて追求している事はいいことだと思います。
1945年東京生まれ、スポーツが好きでヴァイオリンを習わされたが大嫌いでした。
小学校高学年の時にジャズに興味を持ちました。
高校ではジャズの演奏を始めました。
慶応高校にジャズのオーケストラがあり、そこに引っ張られて、一生に演奏活動していました。
中学に入ってブラスバンドに入り、クラリネットを吹きだしました。
ジャズに興味を持ってアルトサックスをやるようになりました。
ピアノは最初にドンと大きな音を弾いて段々小さくなるが、サックスは最初小さいが段々大きくすることができる。
両方知っていたということは作曲するときに凄く便利です。
編曲は音についての勉強しないといけない。(音の出る範囲など)
父は海軍の技術将校で飛行機の設計をしていました。
その後建築士として仕事をするようになりました。

レコード店をやりたいと言うと、父は貸してくれて割と自由な家庭でした。
磯部 力(いそべ つとむ)君 都立大学の名誉教授で、田園調布双葉の理事長をやっていて、彼の兄さんが慶応義塾大学のライトミュージックソサエティでピアノを弾いていて、その辺の繋がりでこの道に入りました。
週一回練習をして、夏休みに箱根のホテルに泊り込んで、ナイトクラブで演奏するとかやっていました。
慶応大学に進みました。
いい先輩がたくさんいました、大野 雄二さんとかいて直々にピアノを教わりました。
ピアノは作曲家にとっては非常に便利な道具で、図表みたいに88個並んでいるので、その中の音を使って書くので、僕にとって毎日使っている便利な楽器です。
ラジオでディスクジョッキーもやっていたり、色んな仕事をしましたがどれもしっくりこなくて、もうちょっと固い仕事をしようと思ってレコード屋をやりながら、音楽の仕事をしていたら、本条さんに出会って曲を書くようになりました。
大学4年生の時に「待ちくたびれた日曜日」がデビューの曲となりました。
詩を貰って家に帰って直ぐにメロディーが出来ました。

1968年テンプターズの「エメラルドの伝説」が大ヒットする。
同年「廃虚の鳩」(歌:ザ・タイガース)
色々なところから声が掛かる様になりました。
1969年に音楽出版社アルファ・ミュージック設立、作曲の道に進みました。
同年「或る日突然」(歌:トワ・エ・モワ)、「白いサンゴ礁」(歌:ズー・ニー・ヴー)、「夜と朝のあいだに」(歌:ピーター)、「恋人」(歌:森山良子)等ヒット今日がどんどん出ました。
「ざんげの値打ちもない」(歌:北原ミレイ)演歌も書く。
これは阿久悠さんの詩が先にあり、メロディーは自然にそうなりました。
自分で歌ったレコードもあります。(1,2曲)
古いものはよく聞きます。
海外に出て全然良かったと思います。
書物では学べない感覚的なものは物凄くあります。
肌で感じた事が出来たので、それはすごく良かったと思いますし、若い人もどんどん行って刺激を受けて、持って帰って来てもらって、栄えた良い国にして貰いたいと思います。

娘の方が英語を話すのは早かったです。
子供達は3~4年経つと言葉は不自由にはならなくなりました。
娘はコミュニケーションの専門家で、英語を書く場合には娘にチェックして貰っています。
息子はヒロ・ムライ(35歳)、中学校ぐらいから8mmビデオを持って撮ったり、高校では正規の映像の授業で作っていました。
南カルフォルニア大学では映画学部があり、アメリカでは1,2を争う様な学校でそこに入って直ぐに、ミュージックビデオを作っていました。
この間ゴールデンブローブ賞を貰ったのはTVの30分もののドラマ『アトランタ』です。
そろそろ映画館でやる普通の映画もつくるようになるのではないかと思っています。
かなり注目されている様です。
私は現在73歳ですが、先輩に桜井順さんがいて作曲家になった方がいるが、84,5歳の時に突然片方の目が見えなくなって、75歳ぐらいまでにやりたいことをやっておかないと後は判らないよと言われて、そろそろ考えないといけないのかなあと思います。
金沢の90歳の方とお話したが、陶芸の方ですが現役でやっていて、ずーっと死ぬまで作曲し続けるということもあるのかなあと思ったり、無理しないでやった方がいいのかなあと考えているところです。