村井邦彦(作曲家・編曲家・プロデューサー)・東京・ロス 音楽生活50年(1)
1945年東京生まれ、73歳、1960年代後半に「エメラルド伝説」、「ある日突然」、「翼をください」「虹と雪のバラード」など多くのヒット曲を生み出しました。
大ヒットメーカーとして活躍中に、音楽出版の仕事の為アメリカに渡り、日本と海外を行ったり来たりの仕事をしていました。
当初は直ぐに日本に戻る予定でしたが そのままロサンゼルスに定住して26年が経ちました。
村井さんは子供のころから音楽に興味を持ち中学高校と楽器にも励みました。
慶応義塾大学のライトミュージックソサエティでジャズにのめり込んで、大学在学中に本格的に作曲を始めました。
本の出版やコンサートの為に久しぶりに日本に帰って来た村井さんに伺いました。
去年で音楽生活50周年。
「翼をください」1971年の作品、学校を卒業したのが1967年ですから30歳前です。(作詞:山上路夫)
合唱曲としてよく歌われている。
「赤い鳥」は初めてと言っていいぐらいの混成合唱グループ。(当時大学生でコンテストに優勝した。)
副賞としてヨーロッパ1カ月旅行があり、僕が提案してロンドンで録音しませんか、と言ったら録音することになりました。
最初彼等はプロにはならないと言っていました。
フォークソングが流行って新しい音楽が始まって、彼らもプロになることになりました。
私は300~400曲ぐらい作っていてこれは少ないです。
デビュー曲は「待ちくたびれた日曜日」(1967年 大学4年)
本条さんと知り合って、やってみないかと言われて詩を貰って作曲したら、レコードになりました。
グループサウンズ、フォークソング、歌謡曲、演歌など注文がくればやるスタイルです。
1969年には音楽出版会社アルファ・ミュージックを作りました。
直ぐに曲ができる場合もあれば、色々やりなおしたりする場合があるので、締め切りがあった方がいいですね、集中力が出て来る。
頼まれる場合はほとんどの場合詩が先です。
山上路夫さんと組む場合は8割がたメロディーが先になります。
若手の有望な作家を育てようということで、最初に計画したのが当時の荒井由美です。
友達の紹介で知り合いました。
当時彼女は高校生でした。
海外を飛び回るようになり、アメリカでは16チャンネルの多重録音をやっていて、日本でもやりたいと思っていて、1972年にそのスタジオが出来ました。
こけらおとしの録音に荒井由美を選びました。
YMO{(Yellow Magic Orchestra) は、日本の音楽グループ。}を作る細野 晴臣に荒井由美のバックをやって欲しいと頼んで、出来上がったのが、ユーミンの「飛行機雲」で、長生きする曲でした。
2013年に宮崎駿さんの「風立ちぬ」の映画の主題歌になりました。
尊敬している作曲家は沢山います。
ミシェル・ルブラン、ヘンリーマンシーニなど、ライバルは考えたことはないです。
勝新太郎さんが初めて監督した映画「顔役」で勝さんから電話が掛かってきて音楽を頼まれた。
伊丹十三さんから実験映画の出演を依頼された事がありました。
「たんぽぽ」で出演させてもらって、音楽も担当することになりました。
映画はもともと好きでした。
ロスアンゼルスには26年になりました。
1970年代はロスアンゼルスは音楽の都でした。
軌道に乗ったら日本に帰ろうとおもっていたが、子供は7歳と9歳でした。
大学受験の歳になり、日本の教育システムに戻るかどうかの決断をしなくてはいけなくて、アメリカの大学に行くことになりました。
音楽的な環境もよかったので、あっという間に26年が経ってしまいました。
娘はアイルランド人と結婚してダブリンに住んでいます。
息子はアメリカの大学に行って映画監督になって去年ゴールデングローブ賞のTVコメディー部門で受賞しました。
本も出版しました、「村井邦彦のLA日記」。
同人誌があって7年以上書き続けていたが、廃刊になってしまうので1冊の本にしようということで出しました。
関孝弘さんからピアノ曲を書かないかと言われて、10年間書き続けていて、そういったピアノ曲だとか、日本歌曲集を作ろうという事で10曲ぐらい有って、どんな歌手に歌ってもらうか考えています。
クラシックも勉強しているが、ジャズとも繋がってきます。