2018年11月3日土曜日

徳永進(医師)              ・"豊かな終わり"を見つめて

徳永進(医師)              ・"豊かな終わり"を見つめて
鳥取市の住宅街でホスピスを備えた診療所を開業しています。
病と戦う人達が最後まで豊かに過ごしてほしいと支えて来ました。
医師になって40年以上、多くの命の終わりに向き合って感じてきたことを伺いました。

家族は深刻な問題に向き合っているので、どうしたら肩の力を柔らかくなるかを考えます。
どうしても過緊張になると、良いものを産まない、痛みが強くなったり、睡眠が妨げられる。
過緊張をどうしたらやわらげられるか、「笑う」と言うことはいいことだと考えます。
末期の女性が這う様にしてトイレに行って、最期に間違ってウオシュレットのボタンを押してしまい、娘が大笑いして、本人もそれを見て笑って、笑える状態ではないにもかからわず、思いがけず笑わずにはいられないことに出っくわすことがある。

地元鳥取市の総合病院で20年以上内科医として勤務していました。
そこで出会ったのが死を目の前にしながら、必死に生きようとする患者の姿でした。
自分が死を迎えようとしている患者の、本当の支えになっていないのではないかという疑問でした。
53歳を迎えた時に、患者一人一人とその家族にじっくり向き合う治療を行いたいと診療所を開きました。
どれが正しいか決めるのが好きで、正しい方向をやろうとするが、一人ひとり会って見るとその人なりという感じで、その人に合ったパターンをいかようにでも持てた方が大事だと思いました。
片方で薬によるマネージメントをどうするか、必要ですが、痛みが和らぐ薬物以外を探すのも大切です。
治療だけで無くどうケアするのか、医療に対する考え方が変わっていきました。
ガイドライン、マニュアルなどあることで作法は救われるが、それだけで済まそうと思うと咀嚼できない。
じーっと聞いていると、患者さんの言葉がぼそっと出てきてそれには繕いが無い、不思議な力になる。
ガイドライン、マニュアルに従ったような言葉、上からの言葉は「1の言葉」と呼んでいるが、1の言葉は特徴として言葉に命が無いと言うことです。
自然な言葉は「2の言葉」に沢山あります。
しかし、ついつい1の言葉で走るんです。
「尊厳死」しか言わなかった患者が何が好きかと問うたら「ゆか」と孫の言葉を言って、孫が来た時、「ゆか お帰り、勉強しちょるか」と言ったんです。
これは2の言葉なんです。
2の言葉がどこかで出会ったりすると臨床が和らぐんです。

「死は豊かだ」→死は豊かでありたい、豊かととらえたいと思うんですが、死はあってはならないものというか、閉じふさぎたいものみたいにネガティブな言葉に置きがちだが、「そうなんだろうか」という問いを含んでいる言い方なんですが。
臨床に行くとそこで初めて死した人をみるわけで、人間の姿は生まれてから死体になるところまでをみんなが持っている。
認知症になった時でも、死も全体の中の一つの姿ですから。
死を前にした時の人の心の動きはとても真剣で、表情、言葉、心の動きは真実感あって見事だと思います。
お風呂に1か月以上入っていない末期の女性に対して看護師が髪、足などを洗ってあげようとして洗ってあげた後、暖かいタオルを顔に置いてあげて10~15秒してから、患者さんが「気持いい!!」と言ったんです、見事でした。
ここからここまでは治療、その後はケアと言うのではなく、ことの始まりからケアも治療も入り混じっている、と言うふうに思います。

自宅での緩和ケアを広める取り組み始めています。
今から半世紀前までは半数以上が自宅で亡くなっていましたが、今は1割程度です。
多くの人は慣れ親しんだ家で生を全うしたいと思っていますが、設備、家族の負担の重さから病院に頼ることになってしまうのが現状です。
人体、人間の命には別の命の仕組みの限界があって、ほどよい人数がこの人口の中では命を閉じてもらって行こうという仕組みが、CT、MRI、PETを越えてあるのではないかと思うんです。
全部を近代医療に期待することはできないのではないかと思います。

次は別の介護の方法があるが、そっちには意外と目が向かない。
庭の花が見える、孫がいる、近所の人の声が聞こえる、海、風の音、家の料理、香りなど
そういったものは表情も良くなって、死を迎えやすい支えになっている。
システムがよくなって訪問看護、訪問介護など介護保険の充実で様々な機器、資源を使えるようになった。
家で亡くなってうまく行ったと思ったが、しかし、娘さんが落ち込んでこられて、「私はなにをしたんでしょう」と言って来たんです。
「しまった」と思いました。
家族に迷惑をかけたくないと言う事があるが、少しぐらいの迷惑を与えたと言う思いが、或る程度あった方がいいのではないかということなんですね。
迷惑なしにしてしまうと、別な後悔が生まれるんですね。
残されたものの後悔を少しでも減らすには、社会資源を使い切ると言う事を目標値にしてはいけない。
人の死に、本人は勿論、家族、そばにいる人がどう死を見つめるか。

或る娘の介護の例、父が嫌いでしたが、1カ月の介護で父との向き合い方があったおかげで、父が好きになったんだと気づかせてもらえました。(死の豊かさ)
出来るだけ後悔しない為には、家族で意見を言い合い、死に参加してゆく、そうしたりすると死が自分の中で溶けて来る。  一緒に海にこぎ出そうという感じですね。
死の瞬間をこうありたいと言うことは絶対できない。  場所さえできないし、こればっかりは思い通りにはできない。
身体は一つの宇宙なので、自分たちの意志ではどうにもできない。
堂々と死を迎える力を見ていると、敬服します、人間もやるなあと思います。
死を前にするとほんとんどの人が誠実にそこの方に向かって行かれます。
命の回路が生まれる時からあって、或る時から死への回路があって、何処からその回路が始まるのか、そこが判らないところが面白い。