鎌田慧(ルポライター) ・声なき人々に寄り添い続けて 前編
1938年(昭和13年)生まれ84歳。 労働問題、巨大開発、冤罪事件など様々な社会問題に対して一貫して犠牲を強いられる側に寄り添い取材を続けてきました。 著作は130冊以上にのぼります。
取材に行って人間関係が出来て、狭山事件でもそうですが、成田空港とかいろいろ取材に行って人間関係が出来るとつい深みにはまってしまい、集会に出かけるとか、書いたりして、そういうのが好きなたちなんですね。 身体は頑丈で若いころは病気をしたことがなく、最近は膀胱がんになるとか、糖尿が出てくるとか、血圧が少し高いとかありますが、日常的に悪いという事はないです。 著書では反逆老人と言っています。
青森県弘前市出身、野球少年でした。 小学校5年から中学2年まで選手でしたが、その後高校ではやっていないです。 本は何となく読んでいました。 菊池寛全集が家に有り読んで居たり、高校では太宰治、葛西善蔵、石坂洋次郎などを読んでいました。 高校卒業後親戚が東京にいたので上京しました。 カメラ工場で働きましたが、ノギスとかマイクロメーターとか使えずそのうちに辞めて、昭和32年当時は不景気でしたが、ガリ版で切ったのを印刷する作業をしていたら、半年後には会社が解散しましたという通知が来て、解雇に反対する交渉を籠城して2か月半やっていました。 ゴーリキーという働きながら作家になった人がいるんですが、その人の影響があって自分でも働いている人たちのことを書こうという思いがあって、ロシア文学に憧れて、3年経って大学に行こうと思って、早稲田大学第一文学部露文科に入学しました。 アルバイト、印刷工の仕事、奨学金で賄い、その後生活協同組合が早稲田にあってそこの教宣部の機関誌を作る仕事に入って、それで生活が出来ました。
大学に入ったのが1960年で、安保で大変な年でした。 花田清輝という作家が好きで、2回原稿を書いてもらいました。 原稿を取りに行くが書いていなかったりして話す機会があり自分にプラスになりました。 総合芸術というサークルにも入っていました。 当時鉄鋼は日本の基幹産業で、4年生の時にその業界紙の募集があり、行ったら決まってしまいました。 1963年ぐらいから景気が良くなっていました。 鉄鋼新聞社で政治部に配属されました。 東京の下町には鉄工所がいくつもありました。 東京近辺の工場は全部回って、鉄鋼の生産量、消費量といった経済記事でした。 鉄鋼の市況が上がるか、下がるかが判る。 後は決算報告を取材するとかしていました。 2年ぐらいすると段々横着になって、机に座ってるようになって、これではだめだと思って辞めました。 次に月刊誌「新評」の編集部に入りました。 岡本太郎さんに対談に来てもらうとか、寺山修司さんにソビエト文学のエフトゥシェンコの「早すぎた自叙伝」みたいなものを書いてくださいと言ったら、ホイキタと言った感じで書いてくれました。 大宅壮一さんら3人の鼎談の批評をずーっとやっていましたので、大宅さんのところへはよく行っていました。
自分でも穴埋め記事などを書いていましたが、1968年に都電が撤去する時代になり、その反対運動を取材して、他の雑誌に書いていました。 30歳で自立しようという思いがあったので辞めてフリーのルポライターとなりました。(28歳で結婚) 『隠された公害 ドキュメント イタイイタイ病を追って』を1970年に出しました。 編集者の方からこれをやらないかと言ってきました。
東邦亜鉛鉱業所のある対馬でも発生していると知って、島に行ってみましたが、集落からは取材拒否され、「隠された公害」という本を書いたら、「隠した公害の資料をお知らせします。」という手紙が来ました。 もうやめた技師でしたが、しっかりしたデータもあり、手に入れました。 厚生省が検査に来た時に、鉱業所のしたにカドミュムが汚染されているのが公害ですが、上流にも汚染されているという結論でした。 だから公害ではないという事でした。 下流の汚泥を上流にトラックで運んでバラ撒いているんで、だから上流も汚染されている。 サンプリングを調査して鉱業所の体育館に保管されていたら闇夜に乗じて水をいれたという、ちゃんとしたデータを貰って、これを書いたら会社を首になってしまうし、書かなければ金を貰って書かなかくなったんだと思われると思って、どうしたらいいのか迷いました。 一寸雑誌に書いたら朝日新聞の記者が来て、トップ記事になりました。 社長の指示で汚染されたところが全部土を入れかえて立派な農地しました。 取材者としては相手から信頼されると言う事ですね。 協力者が現れるんです。 そういう人がいてこの仕事ができるんです。
「鉄は国家なり」というような時代で、そのころ公害が盛んになっていて、八幡製鉄の洞海岸、内海で、子供の絵は海も、空も黒い絵を描いているんです。 製鉄所、化学工場もあって、粉塵があり公害都市でした。 派遣会社が一番ひどいという事でいったら、六畳一間に7人が暮らしているんです。(一人は押し入れに寝る。) バスに乗せられて、ここで働けと一人づつ降ろされて行きます。 ベルトコンベアーに石灰石と石炭が入っていて溶鉱炉の上の方に上がってっていきますが、振動で石炭などが零れ落ち、それをスコップで掻い出さないとコンベアーが止まってしまいます。 労働者がコンベアーの下に入って掻き出しコンベアーに戻しますが、高炉ガスを吸って死んでしまう人もいれば、落ちて死んでしまい人もいます。 六畳一間で暮らし、私は1週間やりましたが、逃げてしまいました。 その後自動車メーカーに6ケ月いました。