2022年11月10日木曜日

鎌田慧(ルポライター)         ・声なき人々に寄り添い続けて 後編

鎌田慧(ルポライター)         ・声なき人々に寄り添い続けて 後編 

自動車工場に6か月の期間で就職しました。   コンベアーの前で一日中立っていて手を動かしているだけです。  今日辞めよう今日辞めようと思いながら6か月経ちました。   その間に、一緒に入った人たちはみんなどこかに行ってしまいました。  トランスミッションを組み立てる作業でした。  生産量が増えるとコンベアーの速度が速くなり、6か月の間に何十秒か早くなっていました。    間に合わない時には班長さんが手伝ってくれます。   期間工の経験をもとに『自動車絶望工場』を発表しました。(1973年)   結構売れたんですが、オイルショックで重版する紙がないという事で、その後2000部重版したのですがいい紙ではなかったです。  紙が出てきて、その後何回か重版しました。  アメリカ、フランスなど海外でも翻訳されて出版されました。  

日本の労働現場の下請け、孫請けなどで支えられていることは、今も続いています。   今はもっと厳しくなって非正規労働者、時間給で働く労働者などが働いています。   1985年に労働者派遣法が出来て、人材派遣会社が出来てその後どんどん規制緩和が行われた。     製造業への適用は抵抗感があったが、2003年6月に解禁となり、それから派遣切りという時代が始まります。  これは職業安定法から言っても考えられなかったことでした。   1995年末に発表した『新時代の「日本的経営」』で労働者の雇用形態をどのようにする、という事で今の年収200万円以下の非正規労働者が4割ぐらい占めるというとかの社会になって来て経済が低迷している。   消費動向が活性化しない。  昔は一億総中流と言われていて、そういった生活がずーっと続くはずだったが、オイルショックのころから会社が潰れたり、人手を削ったりして、一度はバブルが来たが、今はもう賃金も上がらなくて韓国とかアジアの国よりも安くなったという時代です。  

単行本は50冊ぐらいありますが、部数は1/10ぐらいになったんじゃないでしょうか。  日本列島の各地に大工場を作りそれを新幹線や高速道路で結ぶという日本列島改造論という大構想がありました。  六ヶ所村も新構想に入っているよと言われて、取材に行きました。   近くに三沢基地があり、空対地の射撃場があり、反対運動がおこったんです。   開発は国家的事業という事で民間がやるという事で村長が率先して反対運動に立った。   彼は朝鮮に行っていて、朝鮮チッソに六ケ所村から働きに行った経験があり、チッソが来てその辺の土地をみんな取られて、掘立小屋を建てて暮らしていたという事を本人が観て知っていて、それが厭で帰ってきて村役場に入って村長になったら、同じような開発が来たという事で、開発反対運動が始まりました。   今でも行っていますが、そこが原発地帯になって、核燃料のリサイクル基地になったという事なんです。  

むつ小川原開発ではむつ湾に石油コンビナートが出来て小川原湖の周辺にいろんな工場を作るという大プランで、1万5000ヘクタールぐらいを開発する計画でしたが、最後は5000ヘクタールぐらいまでに縮まりました。   今はもう工場はきていない。  できたのは核燃料再処理工場だけです。    それも30年経っても稼働していない。  下北半島の先端の大間にも原発を作るという案もありますが、それもできていない、稼働していない。  

原発の取材にいったのは新潟県が一番最初です。  もう一つ西の方に三方(福井県 三方郡 美浜原発)にあり、辺鄙なところで老人たちが反対運動をしていました。  1971年ぐらいに両方に取材に行きましたが、まだ原発予定地でした。  六ケ所村も並行して取材しました。 そこの住民たちの生活、反対運動、地域の歴史とかを中心に書いてきました。   「原発列島を行く」というタイトルで出ています。   地震の多い国なのに海岸線の崖を崩して作っっていたりして危なっかしい感じがしました。  土地買収も兎に角、金で買収して行くという事でとっても嫌でした。   建設予定地の住民が先進地見学という事で、2泊3日とかで旅行に行くんです。  酷い人はほとんどの原発見学に行っているとかもあり、驚いています。  宣伝費等も含め全部電力料金に上乗せできるんです。  膨大なお金が動きます。  六ヶ所村の日本原電では20年以上何も生産していないけど、経営は黒字なんですよね。  自然エネルギーに投資した方がよほど将来性はあるんですが。  

狭山事件は1963年5月1日に発生した事件で、帰宅途中の16歳の女子高校生が行方不明になって、夜に20万円を要求する脅迫状が自宅に届けられ、翌日の夜に身代金の受け渡し場所に現れた犯人を警察が取り逃がし、行方不明になってから3日後に遺体で発見された。  その近くの若者を一人づつ呼び出して尋問したが、石川さんのアリバイがなかった。    家にいたが両親の証言は信用できないという事だった。  1か月間追及されてついにうその自供をするわけです。    警察官は刑を決められないが、10年で出すと警察官が約束するわけです。  脅迫状は水準が高く横書きで当時横書きで文章を書く人はほとんどいなかった。   被差別部落の問題が深くかかわっていて、警察の差別化があって現在まで続いてきている。    

袴田事件をやっていた熊本さんという判事ですが、静岡地裁の一審で死刑判決をだしましたが、本人は犯人だとは思わない疑念があったが、3人の裁判官の合議で反対できなかったという事です。  熊本裁判官は超エリートの裁判官で末は最高裁の判事になるという風にみんなから思われていた。  彼が袴田事件に関係したばっかしに、裁判官を辞めて弁護士も辞めて路頭に迷う形で亡くなりました。  ほかに矢野裁判長とかの話もあります。   石川さんは被差別部落の出身で勉強する機会もなく、字なんか書けないんです。  脅迫状を書いて人を脅かすなんてあり得ないんです。   そういった不合理は訴えていきたい。

明治時代の末に大逆事件(幸徳事件)があり、無期懲役囚だった坂本清馬氏が、戦後再審請求した。  24人死刑囚が出て、そのうち12人が処刑されて、2人が罪にで、12人が無期懲役になって、その中に坂本清馬さんが入っていた。   再審請求は認められず亡くなってしまった。    遺族がいなかったので終わってしまった。 三鷹事件では竹内さんが亡くなったが、息子さんが継いで訴えていますが、まだ再審は決まらない。  一回冤罪で捕まってしまうと、ほとんど長い時間、30,40年、狭山事件は来年で60年です。   60年間殺人犯の汚名を背負って生きている。  

色々な人の評伝も書いています。   不遇な人に興味があります。  「反骨のジャーナリスト」  鈴木東民という人は大ジャーナリストでドイツに行った時にヒットラーの時代でドイツでヒットラーを批判する記事を日本に送ってくるとか、読売新聞にいたので戦後の読売争議の時に委員長だったとか、釜石の公害でも頑張ったとか、スケールの大きい人でしたが、地元では全然評価されていない。  評価されないまま亡くなっている。   無念の人生の人って多いですよね。   ちゃんと光を当てれば偉さが判るというのに、という思いが強いです。  

上野英信は炭鉱のことを書いた人、一緒に働いて炭鉱夫のことを書いてきて一生を終わった人でした。  彼なんかは偉い人だと思います。  九州のもの書きに影響を与えた人、九州の文化を作った人でもある。  エリートできた人達は庶民のなかの偉い人のことをほとんど知らない。  そういった人たちが政治をするというのが間違いの元だと思います。

ルポルタージュの重要性、記録性、一つのことでもきちんと記録しておくこと。  教訓として残るものがあった方が文化が豊かな国になると思います。