2022年11月29日火曜日

伊勢崎賢治(東京外国語大学大学院教授)  ・トランペットに託す世界平和の願い

 伊勢崎賢治(東京外国語大学大学院教授)  ・トランペットに託す世界平和の願い

長年国連などの平和維持活動に携わってきました。  武装解除、内戦の終結、開発援助など身の危険と隣り合わせの仕事の連続だったと言います。  そんな伊勢崎さんに平穏な日々が訪れようとしています。  大学の定年退官を機に子供のころからの念願だったプロのトランペッターとしてジャズバーなどでのライブ活動に専念できるのです。  伊勢崎さんはトランペットにどんな平和への思いを込めるのか、世界平和活動に従事する若い人たちにどんなメッセージを託すのか伺いました。

子供のころから絵が得意でした。 音楽は得意ではなかったです。   或る日映画の「ベニーグットマン物語」を見ました。(小学校中学年)    ハリー・ジェイムスというトランペッターがいて聞いた時にこれは凄いと思いました。  先生からは美術を目指すように言われましたが、建築家を目指しました。  早稲田大学理工学部建築学科に入りました。    自分が貧しかったのでどうしても貧しい人たちに目が行ってしまいます。  自分がやっている建築は貧しい人たちの役に立つのだろうかと、どうしても考えてしまいます。  

早稲田大学大学院理工学研究科入学に専攻は都市計画でした。  アジアのスラム、代表例がインドにはいっぱいあって、ここに行きたいと思って、行動社会学を学びたいと思って、インド国立ボンベイ大学大学院社会科学研究科に行く事になりました。  スラム街に住む人々の居住権利を守るという事に直面しました。  行動社会学はそういう人たちを横に繋いで大きな政治力にする、非武装、非暴力が基本です。   団体交渉するとか、実践する羽目になりました。  アジアで一番でかいスラムで人口100万人ぐらいです。   僕らのテクニックは共通の問題を解決しようという事です。  公安に目をつけられて4年半いましたが、最後にはビザを取り消しされ強制送還されてしまいました。   

社会問題を考えると地球上どこへ行っても同じなんですね。   その後、アフリカ、中東にも行きました。  国際NGO「プラン・インターナショナル」に応募して就職しました。 シエラレオネ(西アフリカ)に赴任しました。   黄熱病、マラリアがあり、政情不安定です。  仕事の内容は開発援助です。  人口400万人ぐらいで世界最貧国です。 人口の97%が零細農家で、農村開発に行きました。   世界最貧国の指標として、一番大きな指標が幼児死亡率ですが、世界でトップです。   子供を死なさないようにして行く再建プロジェクトです。  お母さん方を中心にして、プロジェクトを行う事にしました。  農業組合を作り、機械化、農地の集約化、病院、診療所、小学校も作りました。  この国の小学校の1/3(200校ぐらい)は僕らが作りました。  死亡率は下がりました。    赴任した2年目から内戦が起きました。(一党独裁、腐敗など)  最後まで頑張ったんですが、帰国せざるを得ませんでした。  

ケニアエチオピア赴任し、アフリカでは10年仕事をしました。   政策を提言するシンクタンクに雇われ中東和平などに関わりました。   外務省から東ティモールにいってくれないかと言われました。  独立しそうなので、国連が政府に替わって、暫定政府の県知事の一人として赴任してほしいという事でした。  破壊されていて、ゼロからのスタートという感じでした。  インフラの再建も大事ですがもっと大切なのは政治、行政を作らないといけない。  東ティモールの独立に反対する勢力もいて、武力で執拗に抵抗するわけで治安も悪くなる。  PKOの部隊も僕の指揮下にありました。  文民統治のトップが僕でした。  

シエラレオネにまた戻りました。 内戦は10年間続いてひどい状態になっていました。  8,9年あたりで放っておけなくなって、国連の平和維持活動が始まり、内戦を終結させるために行ってほしいと、国連から言われました。   病院、診療所、小学校も作りましたが、全部破壊されていました。    子供たちのその後の人生は大きく二つの流れがあり、一つは戦争の犠牲になり、もう一つは少年兵になってしまった。  それが辛かったです。 少年兵はゲーム感覚で残虐さがエスカレートしてゆきます。   人権教育などしましたが、子供たちは暴力がかっこいいと思ってしまう。   僕の第二の故郷なので、銃を降ろさせる、戦争を辞めさせたいという事で何とか出来ました。 

DDR(Disarmament(武装解除), Demobilization(動員解除), Reintegratio(社会復帰)) 武装解除が一番難しいです。  命令する人たちの交渉をしなけらばいけない。  戦争犯罪を恩赦するというオプションが取られるわけです。  そこまでしないと争いは止められない。  停戦合意違反安なども起きて、そうするとまた我々が行くわけです。  或る時同僚から聞いたジャズにビーンと来てしまいました。  

大学で教える事になりましたが、その後2001年9・11の時にアメリカがタリバン政権を倒してその後どうするかという事で、日本は同盟国なので政府からの要請があり、2週間の約束でアフガニスタンに行きました。  DDRをやるという事で外交官という立場で行う事になりました。  日本からのバックアップもなく、これほど死を意識したことはなかったです。  日本だけ警備体制は全然ありませんでした。  武装していないことをベースに交渉して武装解除に成功しました。   「今度こそ死ぬかも」との思いから休暇で帰った時にトランペットを購入して、アフガニスタンに持って帰って、インターネットのサイトでトランペットの学習を始めました。  

日本に帰ってきて、本格的にやろうと思って3,4人のプロに習いました。(ジャズからクラシックまで)   ジャムセッション(本格的な準備や、予め用意しておいた楽譜、アレンジにとらわれずに、ミュージシャン達が集まって即興的に演奏をすることで2,3軒常連になって、週に3日は夜はやっていました。  自分のライブをやって見ないかと言われて、始める事になりました。  固定客が増えてきて嬉しいです。  自分で曲を作ったりもしています。  20曲ぐらい作りました。  2,3時間は毎日練習をしています。

 現在、東京外国語大学大学院総合国際学研究科国際協力専攻平和構築・紛争予防専修コース(PCS)で平和構築・紛争予防に関することを教えています。  戦争の原因を調べて、戦争が起こる前に予防しなければいけない。   この講座を開講して15年になりますが、紛争している国々から来ていて、卒業生たちは立派に働いています。(各々の政府、人権ジャーナリスト、NGO、その他)  日本人の学部生に対しても講座を開いています。  こちらがたじたじするぐらい、問題意識は凄いです。  今年度で大学を退官します。