マッハ文朱(タレント・女優) ・【わたし終いの極意】 マッハ流 人生の恩返し
63歳、15歳でプロレスラーとしてデビュー、歌手としても人気になりました。 18歳でタレントに転身したのち、アメリカに留学現地で結婚しておよそ20年の海外生活を経て2013年に帰国、日本でのタレント活動を再開しました。 最近では講演活動にも積極的に取り組んでいて、健やかに齢を重ねる秘訣などを伝えています。
プロレスラーとして活動していたのは3年間だけでした。 振り返ってみると中身の濃い3年間だったと思います。 生まれた時が4400gで健康優良児で小学生では地元では有名なスポーツ大好き少女でした。 姉が雑誌の記事を見てプロレスを勧められました。(15歳になる直前) 1972年、13歳で『スター誕生!』に出場し、本選まで進みました。 同決戦大会では、後にトップアイドルとなる山口百恵さんと一緒になりました。 私の場合はスカウトのプラカードは挙がりませんでした。 挫折を感じた瞬間でした。 スポーツでは身長(173cm)がプラスに働いて自慢の部分であったが、かわい子ちゃんブームでこの大会では身長がむしろマイナスの働きをしてしまいました。 挫折と自慢の部分が負に働いたという二つを味わいました。 身長を活かした世界にという風に思いました。
15歳でプロレスラーとしてデビューしましたが、山口百恵さんとの対比が面白くて、全レコード会社さんからレコードを出しませんかとオファーを頂きました。 リングで歌を歌い注目されました。 1975年3月19日、WWWA世界シングル王座(第17代)になる。 年間250試合していました。(負けたのが2回だけ) テレビのレギュラー、映画出演もしました。 凄くハードなスケジュールをこなしながら、強くなりたいという思いもあり練習にも励みました。
何か身体に一寸変化が出てきたりするのは、なんかの信号なので見落とさないように気を付けています。 そういった赤信号に対して自分でバランスよく、これは控えてあげようとか、休ませてあげようとか、鍛えてあげようとか、自分なりに作ってあげる感じです。長所サイドから見る工夫が生きてゆくためのコツみたいな気がします。 母から褒められると嬉しくて、子供達にも褒めるようにしていて、主人にも褒められたいし、感謝の言葉を伝えます。 毎晩寝る時に自分のことを褒め捲ってあげます。 新しい朝を迎えると、「今日は貴方ならできる」と言ってあげると、言霊のように、自分を勇気付けています。
台湾系のアメリカ人のパイロットと結婚しました。 台湾が5年、アメリカと併せて20年ほどになります。 2013年帰国しました。 娘が宝塚歌劇団星組男役の桃堂純として入ったことと、次女もテニスも片付いた(コロナ禍でプロとしての活動が難しくなり、スポーツマーケット部門に入る。)ので、戻って来ました。 主人も理解してくれました。 家族内ではよく手紙を書くようにしています。
人にお届けできるエネルギー、元気にするパワーを持っていると絶対に自分で思っているんです。 それを皆さんに、最終章の扉が開いたと思っているので、「マッハ文朱」に成れてこんなに皆さんから応援していただいて、御恩返しするのは何かなあと思ったら、元気をお届けするのがいいのではないかと思いました。 還暦を迎えた時に、なんかいいなあと吹っ切れたんです。 教えてもらいながらいろんなことにチャレンジしてきました。 最後の最後まで現役でいたいんです。 日々今日一日一日なので、何が起こるかわからないので、伝えなくてはいけないことなども書き記して整理してあります。 母も姉も見事に整理整頓して亡くなりましたので、真似をしたいと思っています。