大塚善章(ジャズピアニスト・関西ジャズ協会会長) ・僕は大阪・天王寺育ちのジャズメン 前編
大塚さんは昭和30年代にデビュー、全国的に知られるジャズピアニストとして第一線で活躍してきました。 70歳を過ぎてもヴィブラフォンの鍋島直昶さん、ベースの宮本直介さんと共にゴールデンシニアトリオを結成し、2015年には平均年齢83歳の世界最高齢バンドとしてギネス世界記録に登録されました。
*「アウト・オブ・ザ・パスト」
大塚さんは昭和8年生まれの現在88歳、今も大阪を拠点に活躍する現役のジャズピアニストです。 大阪生まれ、大阪育ち、四天王寺のすぐ近く、街なかの歯科医院の末っ子として育った大塚さん、小学校2年生で太平洋戦争に突入します。 小学校5年生の時、クラスメートと奈良県吉野の旅館に集団疎開しました。 1945年3月の大阪大空襲の夜は、その旅館の2階から炎上する大阪の街がはるか遠くに見えたと言います。
当時家の前にアスファルトが敷いてありました。 市役所の向かいに歯科医院があり、学校、病院などの施設がありました。 兄がローラースケートをその道路でやっていました。 小学校2年の12月8日に戦争がはじまり、学校に行くとみんなが「やったー」と言っていました。 「鬼畜米英」「欲しがりません 勝つまでは」という言葉などが沢山ありました。 疎開する事になり、集団疎開と縁故疎開がありましたが、うちの小学校は吉野に疎開しました。 ほかの学校では鳥取県まで疎開したところがありました。 桜の名所、名所旧跡もありで近くてラッキーでした。 食べ物は甘いものはなくて野イチゴを採ったり、干し芋、干し柿を捕ったりする子もいたりして叱られたりしました。
大阪をB29が攻撃するときには紀伊水道から吉野山を通って行きました。 9機編隊で小さく飛んでゆくのが見えました。 1945年3月4日の大坂大空襲がありました。 その時には旅館の2階から大阪の燃えている様子が見えました。 視界には縦2cm、10cm幅の炎が見えるんです。 ショックでした。 劣勢となり、本土決戦という事で竹槍で対抗するというようなことを言っていました。 8月15日は、7月末に祖父が亡くなったので戻ってくるように言われて、父親が迎えに来て吉野から大阪に帰っていました。 玉音放送を隣組が全部集まって聞きました。 しかし何を言っているのか判らなかった。 兄貴が「負けた。」と言いました。 親父が泣いていました。 灯火管制がなくなりその夜は窓を開けて家の電気を全部点けました。 家は焼けずに済みました。
7人兄弟で男は4人、女は3人で、私は末っ子でした。 長男はビルマに行って無事帰って来ましたが、次男は引き上げる途中で病死しました。 進駐軍が来て病院と高校を接収して良く見に行きました。 運が良ければチョコレートをもらえました。 祖母がクリスチャンで賛美歌を歌うので父がオルガンを買って、祖母が亡くなりオルガンだけが残りました。 次女が音楽が好きで弾いてみんなで歌った覚えがあります。 次女は大阪のNHKの合唱団に入っていました。 兄も弾くようになり、小学校に上がって音楽の先生が休んだ時に「誰かピアノを弾ける人がいないか」と級長が言うので、手をあげました。「若葉」という曲を両手で弾いたのでびっくりしていました。(両手で弾くのは当たり前ですが) 末っ子だったので家ではなかなかオルガンを弾かせてもらえなかった。 小学校に上がる前は独占できたので一生懸命弾いて、上手くできたら母が褒めてくれて励みになりました。 親父は尺八をやっていて師範代の免許を持っていました。 尺八をやったの失敗したと言っていました。(同時には歌えない。)
学制改革があり、中学は高校に昇格しました。 大阪府立高津高等学校となりました。 昭和24年高校1年の時に高校野球で大阪大会で優勝して甲子園に行くことになりました。 高校の校歌がなくて、先生に相談したら君たちが作るのが一番いいのではないかと言われて、自分で作曲して、最終3曲に選ばれ、その投票があり僕の曲が1位になりました。
*「大阪府立高津高等学校校歌」 作曲:大塚善章 校歌は今でも歌い継がれている。