西舘好子(NPO法人理事長) ・「女性村」プロジェクトにかける
1940年、東京浅草生まれ。 高校卒業後広告会社に勤めた後、二つの劇団を主宰、演劇のプロデュースを数多く手がけました。 30年に及ぶ演劇活動に加えて子守歌の良さをこの社会に生かし文化的価値を保存し、伝えていこうと2000年に日本子守歌協会を設立、2年前に「日本ららばい協会」と名前を変えて活動を続けています。 一方でDV、家庭内暴力や子供の虐待、女性問題に関する活動にも取り組んでいます。 西舘さんたちは3年前群馬県下仁田町の廃校になった小学校を拠点にして、シングルマザー支援事業「下仁田ねぎぼうず」プロジェクトを発足させました。 仕事場の確保、農業や誘致企業への就労支援を通してシングルマザー自立のための「女性村」の実現を目指しています。
学校の一棟を借りて、そこを女性の支援センターにしたいと、日本版画協会の井上勝枝さん、コシノヒロコさん、ジュディーオングさんと話しているところに、たまたまフジ子・ヘミングさんがきて、聞いていて「私、ピアノあげるわ。」と急に言い出したんです。 伺っていただいてきました。 フジ子・ヘミングさんが子供のころから弾いていたピアノで100年前からあったそうです。 そのピアノが今下仁田にあります。
私はあえて「女性村」と名付けようと思いました。 お金がかかりますので、日本ではなく本社から応援しますという返事をいただきました。 第一段階を迎えることが出来ました。 2000年に日本子守歌協会を設立、それが虐待防止になり、子育て支援になり、音楽の演奏、シンポジュウムになり、凄く幅広い仕事をしてきましたが、コロナ禍になり全部中止になりました。 総合的に世の中をじっくり考えてみようという事になり、女性たちの事業を始めようという事で、「日本ららばい協会」と名前を変えて活動を続けています。 子守歌はとろさがありますが、哀感、人間の情を教えてくれる。 母親にしてみると呼吸法で、人間の原点の歌です。 山折哲雄さんが子守歌が消えた頃から虐待が増えたという事を言っています。 大事な歌をなくしてはいけないので、ここから事業を始めようと思って、それが日本子守歌協会でした。
虐待が増えているが、保護されている子たちとやっと仲良くなって、その子たちが「俺らはいいよ、保護してくれる国や施設がある。 だけど先生うちの母ちゃん救えよ。 そっちの方が先だよ。」 と言われた時にドキッとしました。 虐待防止には特に力を入れました。 離婚から8割がたがシングルマザーになっている人が多いんですが、3つぐらいに別れます。 ①しっかり自立しているシングルマザー ②困窮しているシングルマザー③お金がないから離婚もできない、子供もみることができないシングルマザー
下仁田では自然があり人口は少ないが人がいいですね。 過疎になるのはもったいないし、ここで何かできるのではないかと思いました。 女性たちのユートピアにならないかなあと思いました。 2年半かかりました。 シングルマザーの人たちに住んでもらってもいいし、土日に通ってっ貰ってもいいし、いろいろあると思います。
「女性村」の記者発表の時にはピアノ演奏されましたが、フジ子・ヘミングさんの寄贈でした。 井上勝枝さんからは展示の版画を沢山提示させてもらい、フジ子・ヘミングさんの版画もあります。 三世代交流の場とか、心身の相談室などが出来上がりました。 来年に向けて子供の駆け込み寺を作りたいと計画しています。 子供の虐待の相談を受けるための一時預かりというようなシステムで本格的に作ります。 マザースクールもネット上で配信していこうと動いています。 廃校利用には、水質検査、防火、防水、プライバシーとか いろいろ検査が厳しいです。
50年近く前にオーストラリアに行った時に、その時に見た「女性村」がずーっと頭に残っていました。 シングルマザー5,6人が「女性村」を作っていました。 彼女たちが作ったジャムとか食料品、洋服とか、バザールをやっていました。 ゆく度にその村は大きくなっていきました。 女性が持っている力は、生活に対するきめ細やかさ、男よりは断然優れていると思います。 そういったものを活かしながら村を作って行ったという事が頭から離れなかった。 それが今回の「女性村」に直結したと思います。 シングルマザー支援事業「下仁田ねぎぼうず」プロジェクトを発足させました。 私の頭の中にはある程度構想が出来ているので、どこまで実現できるかどうか、今は孤独な戦いですが、いつか判ってくれる人が出てくるだろうと期待をかけています。