2022年11月19日土曜日

大河内大博(浄土宗願正寺住職)     ・死を見つめる仏教チャプレン

 大河内大博(浄土宗願正寺住職)     ・死を見つめる仏教チャプレン

大阪住吉区の願正寺住職、お寺を拠点に終末期の患者やその家族、様々な生きづらさを感じている地域の人々を宗教者として支える、ピリチュアルケアに取り組んでいます。      現在43歳の大河内さんは400年続いた寺の跡継ぎとして、9歳で仏門に入りました。   しかし若き日の大河内さんは僧侶になることの意味に悩んだと言います。  仏教者として生と死に向き合う人々を支える決意をした若き日々について聞きました。

病に苦しむ方、障害を持っている方、孤独を感じている方いろんな方、それぞれの人の数だけそれぞれの苦しみがあると思いますが、いろんな方と交流できればうれしいと思っています。  死とか自分が死にゆく命があとどれくらいであるとか、自分の人生、生きざまに向き合わざるをえない時の魂の叫び、それに対する問いの答えというのは、容易に他者が用意できるものではない。  宗教者というのはそうした答のない問いに対して向き合い続けるという事、逃げないでいるという事、向き合ってゆくその人の力を信じるという事、足腰体力を持ったうえで関わり続けることが宗教者の重要な役割だと思います。  

学校の授業の帰りに或る女性が「キリスト教は愛で、仏教は死という感じ」という言葉を投げかけてきました。  「やっぱり そうか」という感じでした。   葬式仏教という言葉が生まれていました。(葬式しかしない。)   死んでからお坊さんに用がある。  このままではいけないという問題意識が起こりました。  生命政治論の授業に出会って、終末期医療の単元があり、日本には1980年代に欧米からホスピスというものがキリスト教の流れの中で入って来て、日本ではほとんど仏教なので、仏教の方がかかわって取り組んでゆくことが大事ではないかと、仏教版のホスピスと良いことでビハーラという言葉を1985年に田宮仁(まさし)先生が提唱しました。  1990年代の最初に長岡の修道院ビハーラ病棟が出来ますという事を私が1999年の時に初めて聞いて、それが非常に衝撃的でした。 何故広がらないのか、何故ビハーラを知らなかったのか、或る危機感を感じて、自分がこれを広げていこうと思いました。

当時先進的な取り組みをしていた新潟県長岡市の長岡西病院でボランティアとして活動します。  そこで見た光景は衝撃的なものでした。   3時ごろに行ったらお酒を飲んでいるんです。  その人がやりたいような、過ごしたいような空間を用意してゆく。 そこにお酒があるというのは、その方にとって日常であれば、当たり前の風景である。  死に行く場所ではなくて、生き抜く場所、日常の延長の場がたまたまビハーラ病棟であったという事です。  大きな経験をしましたが、自分の未熟さ、足りなさ、等を教え込まれた経験でした。   

80代の女性で肺がんの末期で入院していた人がいました。  精神的に不安がありあまり部屋から出られない方でした。  或る日、帰ろうとして居たら一人で談話室にぽつんと座っていました。   「この病棟の時間はあわただしいねえ。」と言ったんです。 私が「部屋にいるより気分がいいでしょう。」と言ったら、「どうかねえしんどいから」と言って、帰ろうといしたら「明日まで生きて居られるかなあ。」とボソッといったんです。  「明日まで生きて居られるかどうかは、誰にも分らないんですよ。 僕だってね。」と話し始めたら、「そんなこと言っているんじゃないの。」と言って途中で話を遮られて、沈黙してしまい、深々と頭を下げて帰った経験がありました。  気分が良くて部屋から出てきた訳ではなくて、部屋にいる事さえ、孤独感、辛さで耐えられなくなって、必死の思いで部屋から出て談話室に座っていたのかも知れない。   誰も気づいてくれない孤独感を持っていたのならば「明日まで生きて居られるかなあ。」という言葉は、もう少し私のそばにいて欲しいという事を意味していたのかもしれない。   私が返した言葉は「諸行無常」の教えででこの場を乗り切るという事でした。   用意してきたようなマニュアル的な言葉は、まさに命の場面では通じるはずがない。   その時に自分の腹から出てきている言葉なら届くかもしれない。   仏教とはどういう事か、僧侶として生きることはどういうことかという事を常に問いかけてくるような、そんな時間、経験だったと思います。

特定の宗教、宗派に関係なく多くの患者に寄り添うのにはどうしたらいいのか、そこで出会ったのがピリチュアルケアでした。  欧米で1960年ごろから普及し始めました。 日本では医師の日野原重明さんらによってピリチュアルケア学会が創立されるなど、医療の現場で重要視されています。  その人が一番大事にしていることが通用しなくなった時に、どういうものを大事にしてゆこうというプロセスに寄り添ってゆくのがピリチュアルケアとして医療現場、特に緩和ケア等に行われています。   悲しみに込められている意味を一緒に大事にしていこうという、寄り添って行こうという事です。  悲しみは悲しみのままかもしれないが。  

60代の男性、症状は落ち着いていたが、後どのくらい生きられるかは、医師からは聞いていなかった。(聞くのが怖かった面がある。)   いいアドバイスはないかという事でした。   自分は亭主関白で家庭のことは妻に任せて仕事に打ち込んでやってきた。   趣味もいっぱいあって整理しなくてはいけないが、自分の中にあとどれくらいの時間があるか、それによって整理していきたい、という事でした。  「残りの時間は奥様のための時間ですね。」と言ったら、大粒の涙を流して「そうなんです。」と言いました。  私の役割は、問いの奥底にある自分の命をどう生きるか、そこの中心に奥様がいらっしゃる。  妻との時間、家族との時間をどんなふうい過ごしてゆくか、その方の中で大事にしてくださったならば、どの選択をしたとしても、その人にとって大事な選択をしてくださっただろうと信じて、役割を済ましてゆくという事になります。  

或る種未完成のまま死んでゆくのが、人間の当たり前の自然な姿ではないかと思います。  そういう場に立ち会うと本当に無力です。   でも一人にはしないというアクションは出来る。  関わり続ける。  

住職の父がすい臓がんで亡くなり、ピリチュアルケの活動を臨床の現場から、後を継いだ寺に移しました。  父を看取って5年になりますが、悲しみはまだ乗り越えていないと思っています。    大切な人を失った瞬間で止まってしまった時計と言うものがあって、動いている人生があり、止まってしまった時計を動かすのではなく、両方の時計を持った人生が始まったという風に、受け止めてゆく方が私は自然ではないかなと思います。    大事なのはどのような結果になったとしても、ありのままを受け止めることを大事にしてゆく社会の方が、それぞれに寛容であって、或る意味生きて行くうえでの修行じゃないかと思います。

大河内さんは現在訪問介護士施設を立ち上げて医療ケアとピリチュアルケアを患者の自宅で受けられるような仕組みを作っています。  地域の人が何でも相談できるように、月に数回お寺の本堂を解放、子供食堂、看護師に依る健康相談など様々なイベントを行っています。