長野安恒(声楽家) ・日本文化の華・唱歌を伝えたい
長野さんは6年間のオーストリア、ウイーンのオペラ生活から日本に戻り、日本の唱歌の文化的価値の高さに惹きつけられます。 きっかけの一つは旧制高校の寮歌の指導に関わったことです。 寮歌を辿るとそのもとは唱歌にあるのではないかと思ったのです。
「言葉と表現力を育む会」 私がウイーンから戻って来て驚いたのは,街の若いひとたちの言葉が乱暴で乱暴で心が荒れているんですね。 小学生が老人に当たって「邪魔なんだよ。」と言ったんです。 これは放っておいてはいけないと思いました。 切れる人たちを観ていると言葉を覚えたてで、伝えたいことを大人に伝えられなくて、地団駄踏んでいる子供の様子によく似てたんですね。 言葉の乱れは文化の乱れである、もっと行儀のいい言葉を使わないとまずいのではないかと思いました。 すこしでも日本語の美しさを伝えていきたいと思ってこの活動を始めました。 ウイーンから戻ったのは32年前のことでした。
唱歌を歌って心身の健康、美しい日本語を身に付ける、礼儀正しさを身に付けるという事で出来たのが明治という事です。 文部省が礼儀正しさ、言葉を身に付けさせるために、また大きな声で歌う事で心身を健康にしようという事で教育のために作ったのが唱歌です。 志田英泉子さんがウイーンにいた頃調べて、(トーマス・アイグナー? 音楽学の博士らと)世界中の教科書のなかで、当時言葉関係の一流の人たちが集まって、子供の為に作った歌集は日本にしかないんです。 そこが唱歌の一番の特徴です。
「言葉と表現力を育む会」のメンバーでもある志田英泉子さんは聖心女子大学卒業。上智大学大学院(西欧中世文化史)、ウィーン国立音楽大学宗教音楽研究科およびオペラ研究科他修了した方です。 最初に唱歌を作った時に外国のメロディーを貰ってきて、そこに日本語の歌詞を付けて行ったんです。 元の詩の内容を崩さずに日本語に変えているところが凄いです。 「埴生の宿」「庭の千草」など文化的に良く考えて作られています。
明治14~17年に出来たのが小学唱歌。 明治43年以降に尋常小学読本唱歌が出来ています。 明治22年ぐらいに中等唱歌が出来「埴生の宿」があります。 明治35年に中学唱歌が出来「荒城の月」があります。 「旅愁」などが出ているのが明治41年中等教育唱歌。 尋常小学読本唱歌になると作詞、作曲が全部日本人なんです。
小学唱歌には「君が代」も入っていてメロディーは外国のもので、いろんなメロディーの「君が代」があります。 「君が代」を最初に舞台で歌ったのは宝塚ではないかと言われています。(宝塚少女歌劇団) 「我は海の子」は一般公募で生まれた曲です。 7番まであって7番は軍国調になっている。 現在は3番までしかない。 「埴生の宿」はメロディーは外国のものです。 1854年4月4日(安政元年3月7日)ペリー艦隊のサラトガ号艦長アダムズが横浜を出港するときに、ミシシッピーの楽隊が日本初演の演奏したと言われている。
「荒城の月」は瀧廉太郎の作曲になっているが、西欧、スペインでテンポは速いが同様のメロディーがあると言われる。 採譜だったのかもしれない。 当時ウイーンで新しワルツが発表されると1週間後には日本で演奏されていたと言われる。 日本音楽教育のために当時の政府がヨハンシュトラウスを先生として呼ぼうとしたが出来なくて、代わりにルドルフ・ディットリヒが来て、楽器、作曲など音楽を何でも教えた。 ウイーンに戻って宮廷付き音楽家になって、日本から持ってきたメロディーを楽譜にして出版、巡り巡ってプッチーニのところにいって「蝶々夫人」の中に5曲ぐらい日本のメロディーが入っています。
最初にこちらから寮歌を習いに行きました。 寮歌を調べてみると、一番最初に寮歌が出来たのは明治34年です。 一校です。 明治35年に「嗚呼玉杯に花うけて」 寮歌に至るにはまず唱歌で音楽を勉強したわけです。 尋常小学読本唱歌を見ると西洋音楽の技法を学んで、日本独自の文化を作りたいという事で、プロの音楽家とプロの国語学者、言語学者で作り上げました。
子供のころから歌が好きでいつも歌っていました。 母は63歳の時に子宮がんになり入院しました。 何もしてやれなくてギターを抱えて母のところで歌っていました。 隣の部屋からなどからも声が掛かって2時間以上も歌っていました。 歌う事で人が喜んでくれることを知って、高校2年で別の学校に行って音楽を学びました。 ウイーンに行かないかと声を掛けられ行くことになりました。 音楽の世界の楽しさを知って吃驚しました。 当時の子供はそれぞれの国の曲しか知らなかった。 日本の唱歌のレベルの高さを知りました。
唱歌を歌っていると礼儀正しい日本語が身に付くんです。 ちょっと立ち止まって自分の心を見直す時間が必要だと思います。 一時期唱歌がバッシングに会い、教科書から減らされた時期もありました。 (唱歌がキリスト教Jの伝道の道具という事はない。) 高齢者施設に行って「荒城の月」を歌いました。 寝たきりで「あーあー」と言っているだけの人が一番を歌うと「あーあー」がピタッとやんで、二番を歌うとベッドから起き上がって、三番、四番を一緒に聞いて歌い終わった途端に「私の好きな歌を歌ってくれて、ありがとう。」て言ったんです。 音楽にこんなに力があるのかと医師が吃驚していました。唱歌は日本の宝だと思います。