山本博(アーチェリー・オリンピックメダリスト)・〔スポーツ明日への伝言〕 還暦を超えて挑む
大学3年生のころ、1984年のロサンゼルスオリンピックに出場、アーチェリー男子個人で銅メダルを獲得しました。 それから20年後の2004年アテネオリンピックに41歳で臨んだ山本さんは、今度は見事銀メダルに輝いて中年の星と言われました。 さらにアテネから20年後の2024年のパリオリンピックでも金メダルを目指して、今年還暦を迎えた山本さんは今月初めオリンピック出場の前提となるナショナルチーム選考会に臨みましたが、惜しくもメンバーの枠内に残る事は出来なず、事実上のパリオリンピック出場の可能性がなくなりました。 選考会が終わったばかり(3日後)の山本さんに伺いました。
大会に臨む朝は何とも言えない重苦しさ、重圧に包まれているのが自分で判ります。 大会が終わると緊張感から解放されて脱力感になって来ます。 いい試合が出来ないと脱力感が重苦しく自分の中にのしかかって来ます。 そういった時には直ぐ練習をします。 とても重要な試合だったので、一つの目標を失ってしまいました。 50代は思ったような成績も出せず怪我などしたもので、還暦という一つの区切りを、新しい人生のスタとになるのではないかと期待した選考会ではありました。
1962年(昭和37年)生まれ、60歳。 神奈川県出身で、中学時代にアーチェリーを始めて横浜高校時代は高校総体は3連覇を達成、日本体育大学3年生の時にロサンゼルスオリンピックに出場して銅メダル、ソウル、バルセロナ、アトランタ、アテネと5大会に出場し、アテネでは銀メダルを獲得、世界ターゲットアーチェリー選手権には2009年までに14回出場、全日本ターゲットアーチェリー選手権優勝8回、国体優勝10回、日本アーチェリー会の第一人者として活躍してきました。 この間埼玉県大宮開成高校で高校教師としておよそ17年間教鞭をとって、2006年からは母校の日本体育大学の教壇に立って、現在はスポーツマネージメント学部教授をしています。
「銅メダルをとってから銀メダルに20年かかってしまったので、これからまた20年金に向けて頑張ります」と答えたんですが、銀を取るまであきらめなくてよかったと思いました。 あまり焦らずにまた20年ぐらいかけて金を目指す気持ちで臨もうという思いがスーッと浮かびました。 毎月2,3試合がありあっという間に1年間が過ぎてゆきます。 あまり20年が長く感じるという事は思わずに来ました。 海外遠征とか日の丸をつけていた時には1年はもっと早かったです。 入院していた時が一番長く感じました。 2016年右肩の腱の断裂の手術、2020年には右手の指先のしびれが続く。
手術後は1か月間は全然動かすことは出来ず、リハビリも周りの人の協力を得て、心の支えになりました。 しびれの原因が胸郭出口症候群(上腕や肩への負担のかかる運動で神経や血管が障害を受けることにより、肩、腕、手の部位にしびれや痛み、冷感、時には動かしにくさの症状が表れる状態)で、左右の首に近い肋骨を取る事になりました。 手術後、前回の手術の時よりもリハビリは苦労ましたが、しびれは回復した様です。
弘前大学の大学院で医学研究科の博士課程に行き医学博士を取りました。(40代後半) 医学の知識でもってアーチェリーをやる若い方が肩とかの故障のないように、専門的な知識を学ぼうと入りました。 6年間愉しみ、又苦労して学びました。
教師と言う仕事をしていたからアーチェリーは長く続けられたと思います。 アーチェリーではストレスをため込みますが、しゃべることでストレスは発散できます。 アーチェリーは個人競技なので自分がいいプレーをしない限り勝利はないわけです。 コツコツ練習をして中学、高校と結果が結ばれました。 シューティングライン(矢を打つ位置)に立つと、年齢の違いはないんです。 一心に矢を真ん中にいれる事だけを集中し合っているという非日常的なことがアーチェリーの魅力だと思います。 アーチェリーだけに取り組んで生活が成り立っている人はほんの数人で、後は仕事と両立しながらなので、練習時間が確保できずに引退してゆく人が大半です。 教師も時間外での活動もお金がもらえるわけではないが、大金持ちにはきっと手に入れられていないようなものを、僕は教師の仕事で手に入れているのではないかなという、勝手な自信はあります。
「世界一あきらめの悪い男」とブログの最初に書いてあります。 学生に言うんですが、自分自身がいいわけをするような人生は歩んでほしくないと思っています。 好転させるヒントが頭に浮かんでしまうので、試さないと気が済まないという事で次が繋がってしまいます。 それが授業にも反映されています。