2022年3月31日木曜日

日下田正(染色家)           ・益子の藍を守る

 日下田正(染色家)           ・益子の藍を守る

栃木県益子町に或る藍染め工房の9代目で現在81歳。 自家栽培した綿花を糸車で糸に紡ぎ、天然染料で染め、真綿本来の風合いを求めて、手作業、手織りにこだわり、常に新しい布を模索してきました。  2018年に県の文化功労賞を受賞し、記念展示会を去年の10月から今年の1月にかけて開き、独自技術の「混じり糸」を使った作品を披露しました。 藍染の奥深さと日下田さんの伝統工芸への情熱を伺います。

かめ場には30cmぐらい高くなったところに、藍かめが規則通りに埋まっています。  72本ありますが、200年使い続けてきました。   2本は割れてしまいましたが、70本は使えます。   20本は現在藍染の液体が入っています。   「藍建て(あいだて)」と言って染まる状態にする作業があり、2週間ぐらいかかります。   浮かんでいるのが「藍の花」と言いまして、発酵する為に出るあぶくです。   日本の藍染の原料になるタデ科の植物で「蓼藍(たであい)」という草の葉っぱです。  葉っぱの中に青く染まるインディゴ色素が含まれています。  これを100日ぐらいかけて発酵させて堆肥状態にしたのが「蒅(すくも)」と言います。  我々染屋に供給してくれます。   世界では4種類ぐらいのものから何千年も染めてきました。  このかめ場は日本でもあまり残っていないと思います。

残してゆくには火事と地震は心配で、東日本大震災の時には液がこぼれました。  一番心配だったのはかめにひびが入ったりすることで使えなくなる事でした。  ひびが入っていないかどうか、2か月ぐらいは毎朝液を観察していました。   「火どこ」と言って真ん中に穴が開いていて4つのかめを温めます。(連結はしていない。)   液の出来上がり具合は「藍の花」の形、色で判断します。   

藍染は一般的にはジーンズなどに使われています。   100%化学藍で染められます。  化学藍に比べれば独特のマイルドな色合いを持っています。  化学藍と比べて桁違いの時間とお金がかかるし、技術も必要で維持してゆく難しさを感じます。    

私で9代目になります。  17,8歳でいろいろやりたいことがありましたが、長男でもあるし、先行きを気にはしていました。   高校3年生の夏に跡をついでみようかなと決めました。   機械が糸を作り、機械が布を作る、化学染料で染める時代に、「蓼藍(たであい)」という草の葉っぱから非常に時間をかけて作る、又技術的にも難しいという事で、新しい技術になかなか対抗できなくて、衰退の一途をたどってきた時代でした。  私の父親の時代が一番難しさを感じた時代だったと思います。   栃木県でも100数十軒は藍染め屋、同業者などがあったと思います。  今現在は2軒だけとなりました。   染物屋は糸を染めたり白い布にいろいろな文様を染める、いわゆる染物の世界でしたが、織物もその中に加えてみたらどうかと、自分なりに考えて織物を勉強しました。   

オリジナルという意味で「益子木綿」という名前を付けました。  隣町に真岡という町があり、「真岡木綿(もおかもめん)」といって」江戸時代中期から明治の初めごろまでは一世を風靡した品質のいいという「真岡木綿(もおかもめん)」の産地でした。  

茶綿、茶色い色をした木綿で柔らかくて、これを使うのが一つの特徴です。  子供のころ、畑に綿の種を撒いて収穫して、それぞれの家庭で糸を紡いで私の家に持ってきました。白い綿のほかに茶色い綿があったのを覚えていました。   自分で綿を織ろうと思った時にそれを思い出して、種を捜しました。   関東地方にはないことがわかって来ました。鳥取県の弓ヶ浜の海岸ヘリで作っているという事を知って、種をいただきました。  何十年前になります。  茶綿を作るのも一つの仕事になっています。 

昨年10月から今年1月まで「藍より青く」という展覧会を開催しました。  展示物には3年間かかりました。  「混じり糸」といって綿のうちにいろいろな色に染めて、色合わせをしながら一本の糸を紡いで、一本の糸にいろいろな色が微妙に入ってきます。  それを織り重ねてゆくと独特の風合いになります。  茶綿と混じり糸からが特徴になっています。  混じり糸は10年前から始めて、ふくさとかお茶の道具をテーマに今回作成出品しました。  2018年に栃木県の文化功労賞を受賞しましたが、ピンとはきませんでした。

栃木県の古い県立高校で、服飾デザイン科という科を新しく作って、布がどういうふうに出来上がってゆくか、という事で機織りの使い方、染め方などを最初1週間に4日教えて、それが20年以上続くことになりました。  生徒は紡いで布を織れるようにまでなりました。中にはそれがきっかけでアメリカの美術大学に留学などもしました。

藍染の染の技術の高さは海外の若い人でもわかっていて、ジャパンブルーと呼ばれる、身体が続く限りやってゆきたい。