2022年3月15日火曜日

鈴木利典(元中学校校長)         ・「オオカミ少年と言われても」

 鈴木利典(元中学校校長)         ・「オオカミ少年と言われても」

2011年3月11日に東日本大震災が発生してから11年が経ちました。  震災前、岩手県の沿岸地域に教師として14年暮らしていた鈴木さんは震災で教え子や職場の同僚など多くの方たちを亡くしました。   震災から1年後、岩手県の大槌中学校で校長先生として勤務することになります。   自身のことを半分だけ被災者、半分だけ支援者と話している鈴木さん、自分の役割をどのように受け止め、震災から10年以上が過ぎた今、どのようなことを伝えようとしているのか伺いました。

「震災を知らない君たちへ」という本を近く出版、去年は「子ども達は未来の設計者 東日本大震災その後の教訓」著書を出す。   去年の著書は今後の災害に役立てて欲しいという思いがあり、教育関係者、支援者、防災担当者向けに書かせていただきました。    今回は震災を知らない子供たちへのメッセージという事で心を動かせればいいなあと思っています。 

震災を知らない子供たちが多くなってきて、これからが被災地が直面する震災の風化との戦いになってゆくんじゃないかと思います。   自分が被災地に行くと不思議な立ち位置で、自分は被災者でもないし、支援者でもない。  直接被災した人たちはなかなか口を開かない、被災地の中を伝えるのは自分の使命なのかなと思いました。   

当時岩手県花巻市にある岩手県立総合教育センターに勤めていました。   震災の翌週に緊急支援チームを作って、被災地に入りました。   陸前高田市の教育委員会の支援を志願していきました。   震災から1年後、岩手県の大槌中学校で校長先生として勤務することになります。   町は壊滅状態で10人に一人が亡くなり、1/3の家がなくなっていました。   大槌中学校は以前に6年お世話になっています。    半分だけ被災者、半分だけ支援者という思いがあります。  大槌中学校では全校生徒267人のうち、被災した生徒は184人にのぼる。   驚いたのは彼らが笑顔で挨拶してくれたことでした。   親に心配させたくないという思いから背伸びしているのかなと思いましたが、どうも作り笑顔には見えない。  学校というのは彼らの大切な心のよりどころ、居場所だったんだなというのが後で気づきました。   帰ると狭い仮設住宅で、親も職を失って居たりして経済的にも厳しいが、学校に来ると友達がいたり、一緒に給食を食べて、部活をして、あの笑顔は友達がいたからではないかと思います。  この笑顔を絶やしてはいけないと思って、いろいろ行事をしました。  350人で焼肉大会もしました。 

子供たちの笑顔が素敵で2年間で8000枚の写真を撮りました。  語り部プロジェクトを作って、仮設校舎の生活の様子を真摯に伝えるんです。   支援の励みにもなるような語り部だったと思います。   北海道に野球部が招待されたこともありました。  その代表の方の弟が大槌町で水産業を営んで事業も成功したが、津波で奥さん、子供、弟さんが流されてしまって、弟が築いた大槌町との縁を途絶えさせたくないということで、代表の方が野球部を招待をしたという話を聞きました。   支援者の中にも被災者が一杯いらっしゃったんだなと思いました。    支援物資が山にようにきますが、食べ物では賞味期限が切れてしまったり、衣類などにカビが生えてきたりして、処分に1000万円かかったというような記事を見たこともあります。  タイムラグもあり、そこの問題もあると思います。  著名人が毎日のようにきましたがそれは異常なことで、学校が日常を取り戻すには大変で、交流の制限は大事なんだと思いました。    

現在は一関市教育委員会で情報技術の指導員を行っている。   子供たちに伝えたいのはエビデンスという言葉を大事にしてほしいと思います。  科学的な根拠、証拠のことですが、生死を分けた理由が、日頃の防災教育とか、避難訓練と直結させ過ぎているかなという気がします。   陸前高田市でも人的被害の多い区域と比較的少ない区域があり、それは防災訓練とかとは別に、背後に高台とか、逃げられる山があったからなんだと思います。  被害をできるだけ少なくさせるためには、この震災で何が人々の生死を分けたのか、という事についてもう少し科学的に見直す必要があるのではないかと思います。   吉浜地区というところがありますが、そこの食住分離は素晴らしいと思います。   津波が押し寄せた土地には家を建てるなと、そこには農地とか仕事で使う場所にして寝るところは高台にするという事で、亡くなった人は一人だったそうで、家もほとんど流されていないんです。

1993年北海道南西沖地震があり、岩手県にも警報が出されたが、避難した世帯は7%だった。   津波防災学習会を行ったが、いつ来るかわからない津波についてはオオカミ少年のように見られました。   それから18年後に東日本大震災が起きました。  学習会の時のことを思い出して逃げたという人が居ました。  

「恩送り」 恩を受けてもなかなか恩返しができない。  人に何かを貰うことよりも、人に何かをしてあげる方が喜びが大きいような気がするんです。  「恩送り」という言葉に出会って凄く気持ちが楽になりました。  困った時には支援にすがって、或る時にその支援を返せばいいんだという事です。    被災地で出会った子供たち、支援者、あの時に出会った人たちの生き方というのは経験できないなあという、そういう人たちに会えたという事は凄い出会いが出来たなあと思います。