2022年3月27日日曜日

村井國夫(俳優)            ・役者稼業60年、そして今

 村井國夫(俳優)            ・役者稼業60年、そして今

1944年(昭和19年)佐賀県出身。  1963年劇団俳優座養成所に第15期生として入所、同期生には地井武男さん、前田吟さん、林隆三さん、原田芳雄さん、栗原小巻さん等がいます。  70年代からはテレビでも活躍、ミュージカルでは45歳の時にレ・ミゼラブルのジャベール警部役で出演、13年間にわたって800回以上演じました。  声優としてはハリソン・フォードの吹き替えなどで知られています。  

第29回読売演劇大賞で優秀男優賞を受賞。  対象の舞台が「獣唄2001年改訂版」と「にんげん日記」  劇団桟敷童子の東憲司さんの脚本。  本番1週間前に1週間をかけて劇団員全員で装置を作ります。  自分も劇団を立ち上げたこともあり、共鳴する部分があって、東に何か書いて欲しいという事で、一回目に「満月の人よ」を書いてもらってやって、2作目に「砦」、劇団桟敷童子が来年20周年という事で、例年は2本ですが3本やるという事で、3本のうち一本に出させてくれと恫喝みたいなもので、懇願しました。

翻訳物ではどこか違和感が自分の中にあるんですね。  現代劇のところではどこかに理解出来ないところがある。  「満月の人よ」で日本人の役をやるのは舞台では何十年振りなんです。  違和感と言うのは、宗教の問題、人種の問題、教育など僕が理解するにはもう一つ深く研究、勉強しないとわかりにくいところがあります。   階級の差、そこの国ではどのように定着しているのかとか。  理解するには時間がかかります。  マイフェアレディ―には差別の階級に対することがあって、一番最後のシーンで、ヒギンズという言語学者が「イライザ、僕のスリッパはどこだい。」と最後のセリフで終わるんですが、僕は階級の差の意識が残っているんだなあと思うわけです。    日本の芝居は理解しやすいなと感じています。  

中国からの引揚者で、母親が佐賀なので佐賀で母親が美容師をやりながら子供5人を育ててくれました。  末っ子です。  人の前では言えないような内向的な子でした。  母が心配して高校の時に演劇でもやりなさいと母が言いました。  映画は母や兄などに連れて行って貰ってたくさん見ました。  高校の時に最初にやった芝居が褒められました。(民話「うりこひめとあまのじゃく」) 辻 萬長さんが1年先輩で部長さんで主演でした。 いろんなことを辻さんから教えてもらいました。   何となく芝居の面白さがわかってきて、県の文化祭にも出ました。  辻さんが俳優座養成所に入る事になり、自分も入りたいと思って、兄貴たちもいたので東京に行きました。   合格することができましたが、悪い期に入りました。(花の15期と言われて沢山いました。)   洗練された人たちばかりでした。  

養成所の人たちと遊ぶのがおもしろかったです。   音声生理学、心理学など当時著名な先生に教えていただきました。  体操、フェンシングなどもやって楽しかったです。  とにかくいろんなっ事を教えていただきました。  3年間養成所で勉強して、3年目に斎藤 憐さんから声を掛けられて重要な役をやらせていただきました。  劇団をやらないかと言われて、地井君とかと13人集まってやりました。(自由劇場)   自由劇場には4年ぐらいいました。  映画、テレビなどにも出るようになりましたが、芝居をやりたいという思いがありました。  中劇場でやるようになりました。 

細川さんから「レ・ミゼラブル」でオーディションを受けるという話を聞いて、一緒に受けないかと誘われました。   歌は本格的には歌えないので半年先生のもとで勉強してオーディションを受け、受かる事が出来ました。  その前に「蜘蛛女のキス」をやったのが一つのきっかけになったと思います。(1988年)  ミュージカルは「マイ・フェア・レディ -」、「サウンド・オブ・ミュージック」 などグラウンドミュージカルをやるようになりました。   何かの出会いがあり、ふっとそこに入り込めるというか、冒険が出来る。自分が停滞している時などに幸いにも人と巡り会ったりする、人との出会いを強く感じます。   

訓練されたものが舞台を支配しているんです。 これをやりたいというものはないですね。やっていないのが一つあって、一人芝居なんです。   挑戦すべきか悩んでいるところです。    野口雨情さんみたいな人を歌と語りでやってみたいというような思いもあります。 ミュージカル「ジョセフ・アンド・アメージング・テクニカラー・ドリームコート」の製作発表があり、ジャコブと言うジョセフのお父さん役をやります。