安東裕子(ランドセルメーカー社長) ・ランドセルに復興の願いを込めて
安東さんは東日本大震災を機に新たな工場を作り、本社のある埼玉県川口市から福島線会津若松市に生産拠点を移しました。 工場で働くほとんどの従業員が地元の人で、町に雇用を生み出したり、イベントを開いて多くの観光客を呼び込んだ入りしていますが、安東さんにとって会津若松市というのは全くご縁がない町だったそうです。 何故かかわりのなかった町の復興に貢献したいと活動しているのか伺いました。
2012年4月着工で8月に稼働しました。 300~500の全ての工程が見られるようにガラス張りになっています。 お互いが見られる緊張感のある物つくりをしてほしいと思いました。 幼稚園、小学校、中高校生までが見に来ます。 一般の方も含め年間1万人が来ます。 1年に1,2度の「マンマミーヤ」というイベントを開催しています。 色々な出店も出店しています。
2011年3月11日に15名ぐらいのお客様から、津波でランドセルが流されたという電話、手紙、メールが来ました。 何とか入学式に間に合わしたいという事でした。 計画停電があるなか、ランドセルを作ってお届けしました。 感謝のお手紙などをいただきました。 社員たちはそれを見て感動しました。 新工場を建設する計画があり、土地を捜していました。 震災で若者の働く場所がないという事をニュースで知りました。 震災の半年前に孫を事故で亡くしました。(4歳) 気持ちが付いて行かない日々のなかで、何か自分で出来ることはないかという思いがありました。 家族が突然になくなるという事を経験して、被災者の方々の思いと重なりました。 最初は候補地としては上がっていませんでしたが、福島県にご連絡したら、会津若松市はいかがですかという事になり決定しました。 最初19名でスタートしては今は90名いますがほとんどが会津若松市の社員です。 経験のない人も半分採用してすぐにこなしていきました。
昭和49年に主人と友達で販売会社をスタートさせました。 社名はイタリア語で貴重なもの、稀なものという事で「羅羅」と付けました。 会津若松市の工場では従業員の年齢は平均で30代の前半になります。 ランドセル業界では若く、向上心があります。社員が自分たちでルールブックを作って実践していてびっくりしました。 我慢強いところもあります。 新工場での一番最初のランドセルは孫のためのランドセルで嬉しかったです。 今も飾ってあります。
10年経って、会津若松市の工場を本社にしていきます。 会津若松市にランドセルパークを作りたいと思っています。